おはようございます。山下正雄です。
日本の暦では明日は成人の日です。きっと明日の今頃は町のあちこちで振袖姿の女性やスーツや袴姿の男性を見かけることでしょう。また明日の夕方のニュースでは各地の成人式の模様が華やかに伝えられていることと思います。
ところでこの成人の日というのは「大人になったことを自覚し、自ら生きぬこうとする青年を祝い励ます」ために定められた日です。法律の上では二十歳になれば皆大人です。しかし、二十歳になれば皆が自動的に「大人になったことを自覚し、自ら生きぬこうとする」訳ではありません。いつまでたっても大人の考えをもてない人もいれば、なかなか自立した生き方ができない人もいます。
こんなことを言うのは今の若者を批判するためではありません。いい年をした大人の中にも子供っぽい考え方の人はいくらでもいるからです。だからといっていい年をした子供っぽい大人を批判するために何かを語ろうとしているのでもありません。むしろ大人となるということがどれほど難しいかということを言いたいのです。
ところで聖書の中では「大人」であることがどのように扱われているのでしょうか。エフェソの信徒への手紙の中にこんな言葉があります。
「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(4:13-15)
もちろん、ここで扱われているのはこの世的な意味での大人のことではありません。しかし、聖書が描くクリスチャン像と言うものは、あればよいという、特殊な人にだけ求められていることではありません。聖書が描いている人間像は、一人の人間としてのあり方にかかわっているのです。
そこで、先ほどのエフェソの信徒への手紙の中に出てきた言葉では、「大人と子供」という区別ではなく「成熟した人間」と「未熟な者」との区別です。未熟な者の特徴は「風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」ことです。人間の価値観や思想は時代によってころころと変わるものです。もちろんそのすべてを意味のない価値観や思想であると否定することはできません、しかし、その教えに弄ばれて結局自分の生き方を見失ってしまってはいけないのです。未熟な者はそこから悪いことだけを吸収し、自分の身につけてしまうのです。
では、成熟した人間とはどういう者であるのか、エフェソの信徒への手紙は語ります。
「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」
成熟した人間とは第一に愛に根ざすことのできる人間です。愛がなければどんなことも空しいのです。
第二に成熟した人間は真理を語れる人です。人を弄ぶためでもなく、引きずりまわすためでもなく、人が成長するために真理を語れる人です。
第三に、成熟した人とはキリストに向かって成長する人、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する人です。
どうかあなたが聖書に書かれた「成熟した人間」となることができますようにお祈りいたします。