BOX190 2008年11月12日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 父と子と聖霊の関係は? 京都府 S・Sさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は京都府にお住まいのS・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「三位一体の教えでは『御父は神、御子は神、聖霊は神』となっており、聖書の中でも、父と御子の親しい一致が記述されています(例、ヨハネによる福音書)。ですが、聖霊については、『霊は主である』とか、『霊が父の内におり、父が霊の内におられる』というような書かれ方はなされていません。一体、御父や御子にとって、聖霊とは何なのでしょうか? 『弁護者』や『賜物』という記述だけではペルソナ的に理解しにくいのですが。」

 S・Sさん、メールありがとうございました。S・Sさんが寄せてくださったご質問はまさに初期のキリスト教会が直面し、熱く議論を重ねてきた問題です。それは一言で言えばキリスト教会の重要教理「三位一体論」に関わる問題です。カトリック教会とプロテスタント教会という区別をよく耳にしますが、この区別が生まれるようになった16世紀の宗教改革の時代でさえ、三位一体論のことでカトリック教会とプロテスタント教会の間で見解が分かれることはありませんでした。今でも三位一体の教理を否定する人が現れたとすれば、どちらの教会からもその主張の正当性を疑われます。つまり、三位一体の神を信じているかどうかということが、正統的なキリスト教会の目印の一つになっていると言うことです。

 さて、そのように大切な教理なのですが、「三位一体」という言葉そのものが聖書に出てこないことは明らかです。また、神の啓示の中にはっきりと「わたしは父、子、聖霊の三位一体の神である」という言葉があるわけでもありません。しかし、それでも三位一体の神を信じることが聖書の教えであるとキリスト教会が信じてきたのは、聖書のあらゆる記述を正しいと受け止めたからです。たとえ互いに一見矛盾するような記述があったとしても、都合の良い記述だけを拾い上げて信じるべき教えを組み立てることに同意できなかったからです。

 つまり、聖書は神は唯一であると教えながらも、父なる神、子なる神、聖霊なる神について語っているのはどうしたことか、その疑問に答え、信じるべきことがらを整理したのが三位一体論なのです。

 ご存じの方にとっては蛇足かもしれませんが、ここで三位一体の教理がどのように表現されているのか、ご紹介したいと思います。17世紀に書かれた『ウェストミンスター信仰告白』からそのまま引用します。ちょっと言葉が難しいのですが、我慢して聞いてください。『ウェストミンスター信仰告白』2章3節です

 「神の統一性の中に、ひとつの本質、カ、永遠性をもつ三つの位格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る。」

 「位格」という耳慣れない専門用語が出て来ましたが、英語ではperson、ラテン語ではpersonaという用語が使われています。普通は「人格」と翻訳されることが多いのですが、神学の専門用語ではわざわざ「位格」と訳します。(「位格」は一位、二位の「位」に、人格の「格」と書きます)

 要するに、神には父、子、聖霊の三つの異なる独立したペルソナがありながら、しかし、ただお一人の神だけがいらっしゃるという信仰です。そのような不思議な存在はただまことの神だけしかいないわけですから、他のものに例えて理解することはできません。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、S・Sさんのご質問は三点あるように思いました。その一つは聖書は「聖霊」が神であることをどこで語っているのかという問題です。「イエスは神である」という表現は決して多くはありませんが、いくつかは簡単に拾い上げることができます。「イエスは主である」という表現の由来が旧約聖書の「主」と同じ意味であるとすれば、イエスが神であることを聖書はもっと多くの箇所で語っていることになります。
 それに対して、聖霊についてはどうでしょうか。キリスト教会が聖霊を神であると信じるその根拠の一つは、聖書がしばしば「神」と「聖霊」とを相互に交換できるように表現しているからです。
 具体的には使徒言行録5章1節以下で、アナニアとサフィラは売却した土地の代金をごまかして「聖霊を欺いた」(5:3)といわれますが、すぐ後には「神を欺いた」(5:5)と言い換えられます。こうした言い換えは決して注意散漫な書き損じではありません。明らかに聖霊と神は同じ存在として意識されているのです。
 あるいは、神にだけ固有な性質、たとえば、すべてをご存知であるというような性質について、聖霊も同じようにすべてを知っている存在として聖書には描かれています(1コリント2:10)。あるいは永遠性ということについても、神だけが永遠性を持つ者であるのに対し、聖書は聖霊の永遠性についても語っています(ヘブライ9:14)。
 以上のような事実から、キリスト教会は聖霊の神性を信じて来ました。

 S・Sさんのもう一つのご質問は聖霊の人格性を聖書はどのように語っているかと言うことです。しばしば聖霊は「神の力」という人格のないイメージで理解されることが多いと思います。
 しかし、聖書は「聖霊」あるいは「御霊」と言う言葉を使うときに、ただモノのように人格のないものとして扱ってはいないという事実があります。ギリシャ語の「霊」と言う単語は「プネウマ」ですが、単語自体は中性名詞です。文法に厳密に指示代名詞で表せば「それ」で受けなければならないのですが、しばしば男性代名詞で受けている箇所があります(ヨハネ14:26他)。それは何よりも聖霊が「弁護者」という人格的な表現で表されているからです。聖霊は抽象的な「弁護」なのではなく「助け主」名のです。
 あるいは、ローマの信徒への手紙8章26節には、御霊がわたしたちの祈りを執り成してくださることが書かれています。「執り成す」というのは人格のあるものだけが行うことができる業です。
 そういう意味で、キリスト教会は聖霊の人格性・ペルソナ性を信じて来たのです。

 最後に三つ目の質問は聖霊が「父と子」とに対して持っている関係に関する質問です。

 それに関してはヨハネ福音書の14章26節、15章26節がその関係を語っています。つまり聖霊は「父がわたし(イエス)の名によってお遣わしになる聖霊」であり「わたし(イエス)が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」なのです。そして、聖書はその聖霊を「御子の霊」(ガラテヤ4:6)と呼んでいるのです。

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