BOX190 2008年10月8日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 生命の水について 熊本県 K・Iさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は熊本県にお住まいのK・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、今晩は。今日は『生命の水』について質問させてもらいたいと思います。
 生きる上で大切なもの、それは水です。そして、もうひとつ大切なものと言えば、いわゆる生命の水かもしれません。
 そこで質問させていただきたいのは、現代社会の中で、どうすればこの生命の水が得られるのでしょうか、教えていただきたいのです。お願いします。」

 K・Iさん、お便りありがとうございました。飲み水の確保ということについては、人間の死活問題ということもあって、昔からいろいろな工夫がなされてきました。古代ローマでは既に水源から水を運んで来るために立派な水道橋が建設されていました。今の日本では、どこの家庭でも水道をひねれば簡単に水が手に入ります。それでも、夏に雨が不足すると、必ずといっていいくらい、節水や断水のニュースを耳にします。
 近年では急速な人口の増加と産業の発展で水不足が世界的な問題になっています。特に途上国では下水設備が追いつかないことと、産業の急速な発展で水質が著しく汚染されていることで、大きな問題を生み出しています。
 このように文字通りの水の問題は避けて通れない問題として、誰もが心に留めている問題だと思います。

 きょうK・Iさんがご質問になっているのは、その文字通りの水の問題ではなく、「生命の水」の問題です。ほんとうは大切な問題でありながら、ほとんどの人にとってあまり関心がないのは、とても残念なことです。
 あとで詳しく「生命の水」について聖書から取り上げたいと思いますが、しかし、「生命の水」については、それとなくその必要性を誰もが感じているのではないかと思います。「心の渇き」「魂の渇き」という表現は何もキリスト教だけの表現ではないと思います。人々はそういう内面の渇きに気がつきながらも、その渇きをどうやって癒していたらよいのか、その答えを見出そうとしてもがいているのだと思います。
 そういう意味で、K・Iさんがこの「生命の水」についてご質問を寄せてくださったことは、とても意義のあることだと思います。

 さて、それではご質問にありましたように、どうすればこの生命の水が得られるのか、ご一緒に考えてみたいと思います。それには先ず、生命の水が何であるのか、そのことからみていく必要があります。

 新共同訳聖書の中では「命の水」という、そのものの言葉が出てくるのは全部で5箇所あります。旧約聖書に2箇所、残りの3箇所はすべて新約聖書の黙示録に出てきます。聖書の箇所だけを列挙すると、雅歌4章15節、ゼカリヤ書14章8節、黙示録21章6節、22章1節、22章17節です。
 では、「命の水」と訳されているヘブライ語のマイム・ハッイームは他にどんな使われ方をしているのかというと、先ほど上げた箇所を含めて、旧約聖書には8回登場します。つまり、8回のうちの二回は既に見たように「命の水」と訳されるのですが、残りの6回は違った訳語が用いられています。
 創世記26章19節にイサクの僕が井戸を掘り当てた記事が出てきます。その井戸は「水が豊かに湧き出る井戸」と表現されています。ヘブライ語では「マイム・ハッイームの井戸」つまり淀んだ水の井戸ではなく湧き水がこんこんとあふれる井戸という意味で使われています。つまり、「マイム・ハッイーム」のもともとの意味は溜まり水ではなく「流れている水」「湧き溢れている水」のことです。それをさして「生きた水」「命の水」とヘブライ語では呼んだのです。レビ記や民数記の中に出てくる儀式で用いられる場合の「マイム・ハッイーム」は新共同訳では「新鮮な水」と訳されます(レビ14:5、50、民数記19:17)。
 そう言った意味での「命の水」は川の水でも泉の水でもよかったわけです。

 しかし、やがてこの「マイム・ハッイーム」という言葉は、比ゆ的な表現に使われるようになって来ました。その典型的な例はエレミヤ書の2章13節と17章13節に出てきます。
 そこでは、主である神こそが「生ける水の源」であると言われています。そして、この生ける水の源である主を見捨てたところに、イスラエルの人々の大きな罪があると指摘されているのです。

 同じようにゼカリヤ書14章8節に出てくる「命の水」も比ゆ的な意味での「水」です。そこでは「その日、エルサレムから命の水が湧き出で 半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい 夏も冬も流れ続ける」と記されています。
 そして、この神の都エルサレムから流れ出る「命の水」という象徴的な表現は新約聖書の黙示録22章1節にも受け継がれています。

 「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた」

 ところで、ギリシャ語で書かれた新約聖書では「命の水」という表現の他に「生きた水」という表現も出てきます。ヨハネによる福音書四章にはサマリアの女とイエス様の間で交わされた有名な会話が記されています。井戸端で飲み水の話をしながら、そこから発展してイエス・キリストはこんなことをおっしゃいました。

 「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(ヨハネ4:10)

 またそれに続けて、イエスはこうもおっしゃいました。

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ14:13-14)

 また、ヨハネによる福音書7章37節38節でこうおっしゃいます。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 そして、ヨハネによる福音書はその言葉を解説して「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」と述べています(7:39)

 以上、聖書から見てきた事柄をまとめると、命の水の源は神にあり、神から与えられる賜物である事がわかります。一方では神の国の完成のときの理想的な姿として「命の水」は描かれますが、他方イエス・キリストはご自分を信じる者たちが受ける聖霊であるとおっしゃっています。
 命の水を手に入れるのにはキリストに対する信仰が必要です。そして、その命の水の恵みの中で完全に暮らせるようになるのには、なお、神の国の完成のときまで待たなければならないということです。

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