タイトル: 救われるために教会は必要? 匿名希望さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望の方からからのご質問です。メールをご紹介します。
「先生、質問があります。僕はクリスチャンホームに生まれた中学生です。子供の頃は親に連れられて教会に行っていました。今は教会から遠ざかっています。
救われるためには教会へ行くことは必要なのでしょうか。地獄には行きたくないので、救われるために教会に行くことが必要なら、仕方なく行きます。でも、できることなら行きたくないです。嫌々教会に行くのは嫌だからです。しかし、喜んで教会に行く理由はなにもありません。どうしたら、よいでしょうか」
メールありがとうございました。メールを読ませていただいて中学生には中学生の葛藤があるのだなぁと思いました。
さて。短いメールですので、細かい状況がよく見えてきません。何が本当の問題なのか、わからないことだらけです。わからないまま何か答えようとして、こちらとしてもとてももどかしく心苦しい気持ちでいます。
でも、分かっていることがいくつかあります。おそらくそのことは間違っていないだろうと思います。それは、あなたが…「あなた」という呼び方はあまり好きではないので、仮にA君と呼ばせてください。…A君が小さい頃から慣れ親しんできた神様のことを、A君は完全に捨て去ってはいないということです。もし、A君の周りにいるほとんどの中学生のように、真の神様のいない世界で生きることを既に決断したのでしたら、こんなことで悩むことはなかっただろうと思います。なんだかんだ言っても、やっぱり小さいときから慣れ親しんできた神様のことが気になり、…いえ、気になっているというより、自覚的に向き合う時がやってきたといった方が正しいのかもしれません。それだからこそ、疑問が次から次へと出てくるのだと思います。そういうA君なのだと信じてますが、いかがでしょうか。
もう一つ、これも当っていると思いますが、A君は小さい時から教会学校や教会の礼拝に出ていましたが、聖書を自覚的に自分で手にとって読んだということはほとんどないのではありませんか。いえ、これはA君のことを非難して言っているのではありません。中学生で聖書を全部読んだことがあるとするなら、その方がかえって驚きです。わたしのことになりますが、わたしがはじめて聖書と出会い、自覚的に読んだのは中学を卒業してからのことです。それまでにA君のような疑問すら考えついたこともありませんでした。
面倒くさいと思うかもしれませんが、とにかく聖書を自分で一所懸命読んでみる、今がそのチャンスなのだと思います。
さて、A君の疑問にどこから答えようかと思います。A君の疑問は見かけはただ一つのことを聞いているようなのですが、でも、そこに含まれている問題は決して一つではないように思うからです。「救われるために教会へ行くことは必要か」…ただこれだけのことならば、答えは簡単かもしれません。
もし、プロテスタント教会の考えをいうとするならば、この地上にある教会の会員となることが、必然的に救いの条件となるわけではありません。
誤解のないように言っておきますが、このことは結論として、地上の教会を否定しているわけではありません。当然、教会の礼拝に行かなくてもよい根拠でもないのです。当たり前のことですが、宗教改革の指導者たちがそんなことを主張するはずがありません。
むしろ、プロテスタント教会の考え方では、救われるために教会へ行くのではなく、神の民として救いのうちに加えられているからこそ教会に集まり、礼拝を守るのです。「天国に行きたいから教会へ行く」という発想ではなく、救われているからこそ教会に集まって恵みをわかちあうのです。キリストがわたしたちのために勝ち取ってくださった救いの恵みについて、今こそ聖書を自覚的に読んで欲しいと思います。もちろん、聖書を一人で読むのは大変だと思います。牧師先生の助けを借りるのも良いでしょう。あるいはキリスト教会はたくさんの信仰問答書というのを生み出して来ました。そういった信仰問答書を手がかりにまずはざっと聖書全体の教えを理解するもの大変助けになると思います。
さて、A君のメールを読んでいて、細かい点でわからないことがいっぱいあると先ほど言いました。その一つは教会に行きたくないと思う理由が、ほんとうはどこにあるのだろうかということです。これはA君の問題ではないのかもしれません。誰だって楽しくないところに行くのは気が重たいものです。義務なら嫌々でも行くでしょう。まして、行かなかったことが将来の大きな損失に繋がるとすれば、たとえば、地獄に落ちるというような損失に繋がるとすれば、嫌々どころか恐怖心からでも行くに違いないと思います。しかし、そんな消極的な理由で行くのはきっとA君としては納得がいかないのだと思います。
しかし、だからといって、他にどんな積極的な理由があるとしても、実際に行ってみてつまらない、楽しくないというのは長続きしない理由だと思います。そして、つまらないのはA君だけの問題とは言い切れない点もあるだろうと思います。もし教会がつまらないと感じるなら、どの点がつまらないのか、率直に意見を述べることは大切だと思います。説教が難しすぎるのだとすれば、改善に向かって何か策があるはずです。同じ世代の仲間が誰もいなくて、教会から足が遠ざかっているのだとすれば、それも何らかの対策が取れるかもしれません。とにかく、教会に行きたくない理由、喜んでいけない具体的な事情をもっと聞かせて欲しいと思いました。
それから、こんな風にも思いました。人間にはいろいろな病気があります。伝染性の病気に掛かった時は、無理して教会の礼拝に行ったりはしないものです。むしろ、どうぞ完全に治るまでお休みください、と教会の方から言われるかもしれません。
同じように心の病のために、どうしても人と長い間一緒にいることができない人もいます。酷く気持ちが沈んでいて一歩も外に出たくないと感じる人もいます。外見は病気には見えませんから、きっと周りから見ればただサボっているようにしか見えないということもあります。そういう病気を抱えている人にとにかく教会に来なさいというのは酷なような気がします。果たして病気をおしてでも教会に来るようにいうべきでしょうか。教会に限らず学校にも仕事にもどこにも行きたくないというような心の状態であるとすれば、その筋の専門のお医者さんに診てもらうということも大切かもしれません。
最後にちょっとだけ辛口のコメントをしたいと思います。A君のメールを読んでいて、こんなことを思いました。
ある人が結婚についてこんなことを悩んでいます。
「結婚はしたいと思いますが、結婚したら時間もお金も自分ひとりで自由に使えなくなるのは嫌です。でも、独身生活は家事をしないといけないので絶対独身のままでは嫌です。一体どうしたらいいでしょう」
もしこんな相談を受けたらA君ならなんと答えますか。「そんなのわがままだ」と言い放ちますか。わたしならこう思います。その人は結婚生活についても独身生活についても本当の意味も楽しさも分かっていないのだと。しかし、少なくとも関心をもちはじめたときなのですから、結婚についてもっとよく知ってほしいと思います。
それと同じことをA君にも言いたいと思います。せっかく関心を持っているのですから、天国について、救いについて、もっと聖書から学んでみてください。
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