いかがお過ごしでしょうか。羽生栄光教会の村田寿和です。
新約聖書、ペトロの手紙一第2章20節、21節にこう記されています。
「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くように、模範を残されたからです。」
イエス・キリストは、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかったのに、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。それゆえ、ペトロは、私たちにも善を行って苦しみむことを耐え忍ぶ。それを神様の御心として受け止めるようにと語るのです。
善を行って苦しみを受ける。それは不条理な、納得のいかないことかも知れません。けれども、そのとき私たちは、私たちの罪のために苦しみ、忍耐されたイエス・キリストへと思いを向けるべきなのです。キリストが、善を行って苦しみを受け、耐え忍ばれたがゆえに、私たちも善を行って苦しみを受け、耐え忍ぶことを、神様の御心であると信じることができるのです。不条理な、納得のいかない苦しみをも、神様の御手からいただくとき、それは私たちを生かす神の恵みとなるのです。