いかがお過ごしでしょうか。江古田教会の風間義信です。
新約聖書のはじめにある四つの福音書は、イエス・キリストの生涯が十字架へと向かっていくものとして描かれています。その道はとても険しいものであり、従っているはずの弟子たちの理解も及ばないものでした。
そのような困難の中にあっても、イエス様はまっすぐに十字架に進んでいかれました。そこにはたとえご自分を憎む者であったとしても、十字架によって救う対象の罪人であるとの強い思いがあるからです。
そもそも、十字架の対象とならない人などいるのでしょうか。確かに、イエス様を信頼し、自分の命をかけようと思った人たちもおりました。にもかかわらず、聖書は
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」(ローマ3章10節、11節)
と言っています。
なぜなら、聖書の教えどおり生きることが出来る人は誰もいないからです。だからといって皆失格であることを教えたいのではありません。イエス様が進まれた十字架を私のためと信じるすべての者たちに「安心して行きなさい」と平安を与えるものです。こうしてイエス様の前に立つ者に与えられる赦しの宣言、これこそが罪を自覚する者に与えられる本当の平安です。