お元気ですか。ラジオ牧師の山下正雄です。
新約聖書ヤコブの手紙にこんな言葉があります。
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」(2:14)
16世紀の宗教改革運動のスローガンの一つは「信仰によってのみ」という言葉でした。人が救われるのは行いによるのではなく、信仰によるのであるという教えこそ、聖書が説くまことの福音であるという発見です。
きょうの聖書の箇所は一見、それとは矛盾したことを説いているように思われます。しかし、誤解してはいけないのですが、ヤコブの手紙は人が救われるのは「行いか信仰か」という二者択一を迫っているのではありません。この手紙には信仰というものがそもそも前提としてあるのです。ヤコブが問題としているのは、その信仰が行いを伴わないと言うことがあるのだろうか、という問いです。宗教改革を行なった人たちがしばしば拠り所とするパウロの手紙でさえ「愛の実践を伴う信仰こそ大切」であると教えています(ガラテヤ5:6)。
ちょっと見方を変えて考えると、行いを伴わない信仰が死んだものであるとするならば、信仰そのものがなければ、行いはもっと意味を失ってしまうのです。
きょうのみ言葉・・・「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」
ヤコブの手紙2章26節