聖書を開こう 2007年8月16日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 躓きの予告(マタイ26:30-35)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリストの受難物語を読むときに、そこにはいつも二つの要素がかかわり合っています。その二つの要素の絡み合いを人間の言葉ではうまく表現することはできません。けれども、どちらか一方の要素だけから受難物語を理解しようとすると、それは聖書の重大なメッセージを見落としてしまうことになるのです。
 その二つの絡み合った要素というのは、神の深いご計画と罪深い人間の弱さです。罪深い人間の弱さがキリストを死へと追いやるのですが、しかし、その罪深い人間をい救うためにキリストは進んで神の深いご計画に従うのです。
 きょうの箇所でもこの二つの要素は見事に絡み合いながら出来事が展開していっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 26章30節から35節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 過越の祭りの食事を弟子たちと共にした最後の晩餐の席を立って、イエス・キリストと弟子たちはオリーブ山に向かいます。祭りの食事の最後はハレルヤ詩編を歌うのがユダヤ人たちの慣わしだったようです。弟子たちが歌った賛美の歌もおそらくは旧約聖書詩編113編からはじまるハレルヤ詩編だったことでしょう。賛美の歌を歌い終えて、一同はエルサレムの町を出てゲツセマネの園へと向かいます。
 エルサレムの町の城壁を出て、東へ向かうとそこにはケデロンの谷があり、そこを過ぎると数十メートルほどでオリブ山の斜面にぶつかります。ゲツセマネの園はこのオリーブ山の斜面にありました。イエスとその一行はいつものようにそこへ向かっていたのです。後にイスカリオテのユダがイエスを逮捕しようとする人々を手引きしてここまで連れて来ることができたのも、ゲツセマネの園が祭りの間いつもイエスが過ごしておられる場所だったからでしょう。

 さて、そのゲツセマネの園にいつものように向かう途中、イエスは弟子たちにいつもとは違った厳しい言葉を述べられたのです。

 「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。」

 このときイエスと行動を共にしていたのは、イスカリオテのユダを除く十一人でした。裏切り者のユダは既に最後の晩餐の席を離れ、イエス逮捕の算段をつけていたのです。ユダだけがイエスのもとを離れ、残りの十一人の弟子たちが、そのままイエスのもとに残りつづけるのかというとそうではないのです。イエス・キリストは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」といおっしゃいます。これは残った十一人の弟子にとって聞き捨てならない言葉です。しかし、イエス・キリストはそれに輪をかけて旧約聖書ゼカリヤ書の預言の言葉を引用します。

 「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。」

 ここで引用されている言葉はゼカリヤ書13章7節以下の言葉です。

 「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同僚であった男に立ち向かえと 万軍の主は言われる。 羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。 わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」

 この預言の言葉にはさらに続きがあります。

 「この地のどこでもこうなる、と主は言われる。 三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ 銀を精錬するように精錬し 金を試すように試す。 彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え 『彼こそわたしの民』と言い 彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう。」

 この預言の言葉は二つの大切なことを語っています。一つは羊飼いを打ち。羊の群れを散らされるのは神の深いご計画であるという点です。この神の深いご計画にはどんな人も抗うことが出来ないのです。この言葉を真摯に受け止め、受け入れるしかないのです。
 もう一つの大切な点は、神は羊を散らしはするのですが、しかし、「主こそわたしの神」と答える群れを残しておいてくださるという恵みのメッセージが語られているのです。
 確かに主イエス・キリストは前半の厳しい言葉だけを引用して、恵みのメッセージの部分からは引用なさいませんでした。しかし、その代わりにこうおっしゃっているのです。

 「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 これこそ、散らされた弟子たちに対する恵みのメッセージなのです。

 けれども、これを聞いた弟子たちは困惑しました。ペトロが先頭を切ってこう答えます。

 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」

 結局、ペトロは主イエス・キリストの言葉を真摯に受け取ることができなかったのです。神の決定を自分の力で覆すことができると過信していたのです。これに対してイエス・キリストはこう予告なさいます。

 「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 それでも、ペトロは食い下がって、自分だけは大丈夫だと言い張ります。それはペトロだけのことではありません。「弟子たちも皆、同じように言った」と記されています。弟子たちは結局、自分の力を過信して、神の預言の言葉を真摯に受け止めなかったばかりか、復活のイエス・キリストが一足先にガリラヤで弟子たちを待っていてくださるという恵みのメッセージにも耳をふさいでしまっていたのです。

 けれども、この頑な罪深い弟子たちの救いのために、イエスは十字架の死に至るまで、神のご計画に寄り添って歩まれるのです。

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