聖書を開こう 2007年8月9日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 最後の晩餐の言葉(マタイ26:26-29)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会には聖餐式と呼ばれる特別な儀式があります。プロテスタントの教会では洗礼式とこの聖餐式の二つを礼典とかサクラメントと呼んでいます。実はこの聖餐式の由来は主イエス・キリストが弟子たちと最後の過越の食事をしたときに定められたものだと言われています。
 きょう取り上げようとしている箇所は、まさにその聖餐式を制定したキリストの言葉です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 26章26節から29節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

 きょうの箇所はいわゆる最後の晩餐での席上でイエス・キリストがおっしゃった言葉です。最後の晩餐については、聖書を読んだことのない人でも、レオナルド・ダ・ビンチの有名な絵画『最後の晩餐』を通してそのイメージをそれとなく抱いていることと思います。
 十二人の弟子たちと最後の晩を過ごされたといわれるこの食事ですが、これはユダヤ教の三大祭りの一つ、過越の祭りの食事でした。
 かつて、エジプトで奴隷として労働を強いられていたイスラエル民族を、指導者モーセを通して神が救って下さったことを記念するお祭りです。「過越」という名前の由来は、小羊の血で目印をつけた家を神が過ぎ越され、そうでないエジプト人の家に災いをもたらしたことから、この「過越」という名前がつけられました。その詳しい由来については旧約聖書の出エジプト記12章に記されています。
 さて、その過越の出来事は、イスラエル民族にとっては生涯忘れてはならない救いの重大事件でした。そうであればこそ、そのことを記念して、毎年このお祭りが盛大に行なわれていたのです。「契約の民」「選民」という言葉はこの過越の出来事がなければ意味をなさないほど、過越の出来事は救いの歴史にとって大きな意味を持っていたのです。
 その救いの歴史を祝う食事の席に十二人の弟子たちと共に与り、その食事の最中にイエス・キリストがおっしゃられた言葉がきょうの言葉です。もちろん、最後の晩餐の席上でイエス・キリストがお語りになった言葉は、これだけではなかったでしょう。しかし、特にここで取り上げられている言葉は、聖餐式の制定の言葉として後の時代に呼ばれるようになった言葉です。

 先ずはじめに、イエス・キリストはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

 過越の祭りの食事には順序と作法がありましたから、おそらく粛々と儀式に従って食事が進められていたのでしょう。しかし、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」とおっしゃるイエスの言葉は本来の祭りの食事の席で述べられる言葉ではありませんでした。それを聞いた弟子たちも、そこに語られる意味をきっと考えたに違いありません。イエス・キリストは何をお考えになって、裂かれたパンを差し出して、「これはわたしの体だ。食べなさい」とおっしゃったのでしょうか。

 イエス・キリストは今までに何度となくご自分の死について、弟子たちに予告をされて来ました。エルサレムで祭司長や律法学者、長老たちに捕らえられ、十字架の死を遂げると告げてきたのです(16:21、17:22-23、20:18-19)。しかし、なぜそうなのか、その死にどんな意味があるのかということについては多くを語ってきませんでした。ただ一度、弟子たちにこうおっしゃったことがあります。

 「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として命を捧げるために来た」(20:28)

 ルカによる福音書22章19節やコリントの信徒への手紙一の11章24節では、「あなたがたのために与えられるわたしの体」とか「あなたがたのためのわたしの体」と言われています。つまり、キリストが割いて弟子たちに与えたパンは、イエスの身代わりの死を象徴していると考えてよいでしょう。
 洗礼者ヨハネはイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言いました。パウロも「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」(1コリント5:7)と書いて、キリストと過越の小羊とを重ね合わせています。イエスの死は身代わりの死、代償の死だったのです。

 イエスはその身代わりの死を示す割かれたパンを差し出して、「これを受けよ」とおっしゃっているのです。

 それから同じようにぶどう酒の入った杯を取って、こうおっしゃいました。

 「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

 第一にこの杯は、罪が赦されるようにと流された血であるとキリストはおっしゃいます。先のパンが身代わりのキリストの死を象徴していたのと同じように、渡された杯、その中に入っている赤いぶどう酒は罪の赦しのために流されるキリストの貴い血潮を表しているのです。このキリストの貴い血によって、罪が赦されるのです。
 それと同時に、キリストはこの血は「契約の血」であるとおっしゃいます。「契約の血」という言葉は、旧約聖書出エジプト記に出てくる言葉です。エジプトを脱出したイスラエルの民はシナイ山で神と契約を結びます。モーセは犠牲の動物の血を民に降り注いで、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(24:8)と言いました。
 まるでモーセのようにイエス・キリストは新しい契約を立てて、「これは…契約の血である」とおっしゃっているのです。ただ、モーセには雄牛の血が必要でしたが、イエス・キリストはご自分の血をもって新しい契約をお立てになったのです。
 かつて預言者エレミヤは神が新しい契約を結ばれる日が来ることを預言しました。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」(31:31-32)

 今やキリストの血によって、信じる者は皆、新しい契約の中に加えられているのです。

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