メッセージ: 賢いしもべ(マタイ25:1-13)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
バッハの有名なカンタータに『目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声』というのがあります。同じ題名のオルガン曲は教会の結婚式の前奏曲でよく演奏されるので、耳にしたことがある方も多いと思います。日本ではこれに歌詞をつけた『白いヴェール』というタイトルの歌まであるようで、キリスト教とはまったく関係のない人もメロディーを耳にする機会が増えたのではないかと思います。
実はこの曲はきょうこれから取り上げようとしている箇所をモチーフにした曲です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 25章1節から13節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている5人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
マタイによる福音書は24章からずっと終末についてイエス・キリストの教えを取り上げて来ました。きょうの箇所もその一連の流れの中にあります。
実は先週学んだ箇所では「忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」という問いかけから始まっていました。きょうの箇所はそのうちの「賢さ」についてさらに詳しく取り上げられていると考えても良い箇所です。そして、きょうの箇所の結びは「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」となっています。この言葉は24章42節の言葉を思い起こさせます。
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」
つまり、きょうの箇所は明らかに24章の終末についての教えから続いている箇所だということができます。
では、きょうの箇所から学ぶべき「賢さ」と警戒すべき「愚かさ」について、イエス・キリストのお話くださった譬え話からご一緒に考えていきたいと思います。
この譬え話は当時のユダヤの結婚式の様子が題材となっています。もっとも、結婚式といってもユダヤではどこでも必ず同じスタイルであったというわけではありません。細かい点を言いはじめると譬え話の本質を見失ってしまいます。とにかく大切なポイントはユダヤの結婚式では結婚の宴こそが大きな山場であるという点です。イエス・キリストの譬え話の中にも、既にこの結婚の祝宴を題材にしたたとえ話が登場していました。神の国の完成を例えるにはふさわしい題材だったのです。
さて、きょうの譬え話では、このもっとも大切な祝宴に与れないおとめたちが登場してきます。全員が祝宴に与れなかったというのなら、それは誰にとってもどうすることもできない話です。しかし、少なくとも十人いたおとめたちの半分はこの祝宴に与ることができたのですから、心してその違いを学ぶ必要があるのです。
この譬え話の結びの言葉からすると、どこが賢く、どこが愚かであったのか、両者の違いを見失ってしまうかもしれません。なぜなら、結びの言葉は「だから、目を覚ましていなさい」と結論付けているからです。しかし、譬え話の本文を見てみると、祝宴に与ったおとめたちも、与れなかったおとめたちも、ともに眠りこけていたからです。もし、「目を覚ましている」と言うことが文字通りの意味であるとすれば、この二つのグループには何も違いはなかったということになってしまいます。
つまり、文字通りに眠りこけていたかどうか、ということはここでは問題ではないのです。むしろ、必要な油を備えていたかどうかということこそが、両者の違いとなって現われてくるのです。言い換えれば「目を覚ましている」とは「備えている」ということに他ならないのです。
では、「備えている」とは具体的に何をどう備ええているということなのでしょうか。譬え話の中には賢いおとめと愚かなおとめとを区別するために、ランプを灯す油の用意があったかどうかということが重大な点として挙げられています。一方は油の用意があったため婚宴の席に無事につくことができました。他方はその準備が不十分であったために、いざというときに買い足しに走らなければならない有様です。
その油が何であったのか、古来からその油こそ聖書の中で油に例えられる聖霊であるという解釈が知れわたっています。確かに、真の信者とそうでない信者は聖霊をそのうちに持っているかどうかということが重要な区別です。しかし、この譬え話自体は油が何を意味するのかについて、何もヒントを与えているものではありません。むしろ、それが何であれ、わたしたちが花婿であるキリストを待ち望む者として置かれていること。そして、その待ち望む者として、キリストを迎えるにいつも備えている者であるのか、そのことが問われているのです。
愚かなおとめの愚かさは、自分がキリストを迎える者であることを、眠りこけてしまう前から、すっかり忘れてしまっている点なのです。
ボーイスカウトの標語に「備えよ。常に」という言葉があります。クリスチャンにとって大切なことは、いつの時代にあっても、どんな時にあっても、自分がキリストを迎えるものであることを意識して過ごすことなのです。それは愚かな女たちがしようとしたように、他人から借用して済ませることのできるものではないのです。そういう意味で、一人一人の備えが求められているのです。それを自覚している人が賢いおとめ、賢いしもべなのです。
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