聖書を開こう 2007年6月28日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 悪い僕(マタイ24:45-51)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 小中学校の頃の思い出です。授業中、何かの用事で先生が教室を離れることがありました。戻ってくるまでにやっておくようにと課題を出され、最初のうちは皆、真面目に課題に取り組んでいます。そのうち、先生が中々教室に戻ってこないと、必ずクラスの中の何人かが騒ぎ始めます。最初のうちは隣りに座っている人にちょっかいを出したり、ちょっと離れた席の人に消しゴムのかすを飛ばしたり…。やがてはもっと大胆に席を離れて教室中を徘徊したり、取っ組みあいの悪ふざけをする者まで出てくる始末です。
 クラス全体がざわざわとし始めて、もはや廊下を歩く人の足音もかき消されるほどになった頃に、突然教室の扉が開き、先生が戻ってくるのです。席を離れて悪ふざけをしていた者たちは、慌てて自分の席に戻ろうとするのですが、もう時は遅し。しっかりとその慌てぶりは先生に見られてしまいます。
 そんな小中学校の頃の思い出は、イエス・キリストが語ってくださる終末の時の警告を聞くたびに思い出されます。そして、きょう取り上げようとしているイエスの話と重なるところがあります。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 24章45節から51節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 今まで何回かにわたって、キリストがお話くださった終末についての教えを学んで来ました。そして、前回は終末を待ち望むわたしたちが、目を覚ましていることの重要性を教えられました。きょう取り上げる箇所には、目を覚ましている忠実で賢い僕と、そうではない悪い僕の姿が描かれています。
 イエス・キリストはおっしゃいます。

 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。」

 この譬え話が誰に対して語られているのか、ということを予めもう一度確認しておく必要があります。そもそも、イエス・キリストが弟子たちに終末についての教えを語り始めたのは、弟子たちがキリストにこう尋ねたからでした。

 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

 なるほど、イエス・キリストが語り始められたのは、弟子たちの質問に促されてでした。そして、その意味では直接の聞き手はキリストがお立てになった十二人の弟子たちであることには間違いありません。
 そうすると、きょう取り挙げた個所に出てくる「主人がその家の使用人たちの上に立てた僕」というのは、十二人の弟子たちのように、特別に指導的な役割を果たすようにとキリストによって立てられた者たちのことなのでしょうか。つまりキリストによって上に立てられた者が、この譬え話の聞き手ということなのでしょうか。
 結論から先にいうと、この譬え話は、牧師や教会役員といった上に立つ者に語られた言葉では必ずしもありません。むしろすべてのクリスチャンへの警告と取るべきです。
 今まで終末について語ってこられたキリストの言葉が、弟子たちばかりではなくすべてのクリスチャンに対して語られていたのと同じように、ここでも特別な役職にある人にだけ語られているわけではありません。
 「使用人たちの上に立てて」という言葉は単に譬え話の内容から出てくる言葉に過ぎません。キリストは「忠実で賢い僕」を描く時に「使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした僕」のことを例として上げました。しかし、続く25章では、「賢い僕」をさらに詳しく説明する時には、婚礼に出席する十人のおとめを例えとしてあげています。このおとめたちは、別に誰かの上に立つ人たちではありません。続いて語られる「忠実な僕」についての詳しい話に登場する人々も、特別に誰かの上に立てられた人たちではありません。
 従って、たまたま譬え話の題材が誰かの上にたって世話をする僕のことを取り上げてはいますが、この話に耳を傾けるべきなのはすべてのクリスチャンということなのです。そういう意味で、誰もがしっかりと耳を傾けるべき教えなのです。

 さて、この譬え話には「忠実で賢い僕」と「悪い僕」が対照的に登場しています。もちろん、キリストがわたしたちに期待しているのは、忠実で賢い僕であることです。そして、忠実で賢い僕とは、主人がいないときにも言われたとおりにしているのを見られる僕です。その反対が「悪い僕」なのですが、では、一体どこでどう躓いて「悪い僕」が誕生するのでしょうか。イエス・キリストはこう語ります。

 「しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。」

 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりすること自体が悪い僕のやることなすことそのものなのですが、そうなるに至ったそもそものきっかけは、「主人は遅い」と思うその思い込みです。主人はいつ帰ってくるということを告げたわけではありません。日暮を過ぎてからかもしれませんし、夜の9時かも知れません。あるいは真夜中になるのかも知れません。
 悪い僕たちは自分勝手な判断で、主人の帰りは遅いと決め付け、好き放題をしているのです。「遅い」と勝手に思い込まなければ、そんな愚かなことはしなかったことでしょう。

 では、主人の帰りがいつかいつかとビクビクしながら待っていれば、「忠実で賢い僕」と認めていただけるのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストが語ってくださる「忠実で賢い僕」は、何もしないでビクビクとしながら主人の帰りを待っていたのではありません。主人の帰りが遅くても早くても、言われたことをそのとおりにしている僕たちです。
 主人の帰りが遅いと思い、好き勝手にすることは、正に悪い僕そのものですが、いつ主人が帰るのかそればかりに気をとられて、主人の期待に何も応えない僕も悪い僕なのです。

 キリストの再臨を待ちわびるわたしたちも、主の再臨がいつになったとしても、忠実にキリストの期待に応えて主の業に励むことが大切なのです。

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