聖書を開こう 2007年3月22日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: キリストの権威と服従(マタイ21:23-32)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「権威」という言葉はあまり権威のない言葉になってしまいました。何かの権威に従うと言うよりは、自分自身が自分にとっての権威であると言うのがほとんどの人の生き方です。
 聖書の世界では「権威」の問題は重要なテーマです。そして、聖書は最高の権威者は天地万物をお造りになった神こそそのお方であると語っています。ですから、時には人間に従うよりも神に従うことが求められるときがあるのです。
 さて、きょう取り上げようとしている箇所では、イエスの権威がどこからのものであるのか、そのことを巡る論争が繰り広げられます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 21章23節から32節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 マタイによる福音書はきょう取り上げた箇所から連続して、イエスとユダヤ教の当局者たちとの間に起った論争の記事を取り上げます。イエスがエルサレムに入城してから5日間ほどの間に起った様々な論争がそこには記されています。
 先ず初めの論争として、きょうの箇所にはイエスの権威巡る論争の記事と、権威に対する人々の姿勢が取り上げられます。

 少し前に学んだとおり、イエス・キリストはエルサレムにやってこられてから、先ず初めにエルサレムの神殿を清めるという業をされました。具体的には神殿境内で鳩を売り買いする者や両替商たちを追い出すということをなさったのです。台や椅子をひっくり返すと言うイエス・キリストにしてはかなり乱暴なやり方でした。そうでなくても、過越の祭りのこの時期には神経を尖らせていたユダヤ教の当局者たちには、このイエスの行動は見逃しがたいと映ったのでしょう。しかも、神殿にやってきて群衆に教えを説いているのです。その行動は群衆を扇動しているとも受け取られたのかも知れません。ユダヤ最高法院の議員たちと思われる祭司長や長老たちはイエスにこう尋ねます。

 「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」

 彼らはイエスにこう問いただしたのです。

 しかし、イエス・キリストは彼らの質問には正面から答えることはなさいませんでした。なぜなら、彼らの質問の目的は明らかだったからです。イエスがどんな権威をもっているのか、誰からその権威を授かったのか、そんなことを真面目に問おうとしているのではないからです。彼らは、ただ、民衆を巻き込んだ騒ぎに発展しないうちに、イエス・キリストの活動を止めさせることが目的だったのです。少なくともこの過越の祭りの期間だけでも、大人しくしてほしいと願ったことでしょう。ヨハネによる福音書が記すところによれば、最高法院の人々はこんなことを話し合っていたのです。
 「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」(ヨハネ11:47-48)
 何よりも騒ぎが大きくなって、ローマ軍が介入する事態を恐れていたのです。

 そうした祭司長や長老たちの意図を見抜いていたからでしょう。イエス・キリストは逆に彼らに質問を投げかけ、彼らを黙らせてしまいます。その上でさらに一つの譬え話をお語りになって、彼らがどれほど神の権威に不従順であるかを指摘なさったのです。

 では、どんな質問をイエス・キリストは投げかけられたのでしょうか。それは、洗礼者ヨハネの権威にかかわる質問でした。

 「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」

 この質問は祭司長や律法学者たちにはどう答えるにしても、自分たちを不利に陥れる質問だったのです。洗礼者ヨハネの権威が天からのものであると答えれば、神の権威に従わなかったことが問いただされてしまいます。逆に、人からのものであると答えれば、ヨハネを支持する多くの民衆を敵に回すことになって、かえって騒ぎが大きくなってしまいます。彼らの出した答えは「わからない」だったのです。もちろん、そんなことも分からない彼らではありませんでした。現にそのあとでイエスが語った譬え話についての質問には、即答できるほどの明晰な頭脳を持っていたのです。ただ、自分たちの立場を守るために、答えを放棄してしまったのです。

 そこで、今度はイエスは一つの譬え話をお語りになって、権威を云々する彼らの欺瞞を指摘されたのです。その譬え話とは父親の言いつけに背いた兄弟の話です。兄は最初父親の言いつけを拒絶しますが、途中で考えを変えて言いつけに従います。逆に弟は最初は父親の言いつけを聞き入れますが、結局は心を翻して父親の言いつけを守りません。
 イエスは譬え話を語り終えて、こう尋ねたのです。

 「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」

 祭司長や律法学者は「兄の方だ」と即答します。しかし、その兄とは正に途中で悔い改めた徴税人や娼婦たちのたとえで、弟の姿こそ、彼ら自身だったのです。権威についてイエスに問いながら、神の権威を知っていても従わない彼らの姿勢が暴かれてしまったのです。それはただ、昔の時代の話ではありません。この福音書を読む者一人一人に、まことの権威の所在とそれへの服従が問われているのです。

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