1ヶ月前に入院し、病院でただひたすらキャンプに行けるようにと祈り続けました。
4年前に初めて参加して家庭礼拝のしおりと月刊ふくいんのなみを読むめぐみが与えられました。教会も紹介してくださいましたが、遠距離で毎週通うのが困難となり、現在は近くの教会に行っています。
キャンプで知り合った女性で、私と同じ様に教会につまずかれた方が、今回改革派の教会に転会されたとお聞きしました。主のめぐみに導かれた彼女を思うと、なんだか自分には祝福が与えられないように感じてしまいます。やたら自分の不信仰と罪ばかりが気になって、今まで主が私にしてくださった数多くのめぐみを忘れてしまうところでした。
今回の芦田先生のメッセージの中で、ルカ15の放とう息子の話は、今の私のために語られたように思えました。先生の証しをお聞きして、こんなにまじめそうに見える方でも昔はいろいろあったんだなぁと思いました。虚無感にとらわれ生きる実感のなかった若い頃の先生が、教会に行くようになって教会の皆様の支えで主の家族となられたいきさつは、本当に放とう息子の話そのままです。人は極限状態になるほど打ちのめされなければ罪に気づかない。本当の自分の姿、自分は何者なのかがわからない。本当にその通りです。
1度ボロボロになって死ななければ生まれかわることができません。そのためにイエス様は十字架でボロボロになられたのだと思います。ほかでもない、どうしようもないこの私の身代りとなって。
放とう息子は私自身のことでもあると思いました。不信仰でダメな私でも、主のめぐみは私にとって十分であると信じます。主は決してお見捨てにならないと信じます。父のふところにイエス様のそばに戻り、死んだ人間が復活のイエスによって生き返らされたのですから。
芦田先生、心に残るメッセージ本当にありがとうございました。(感想文 滋賀県 T・Eさん)