ずいぶん前のことですが、ある日、リスナーのNさんからお便りが届きました。メールが多くなった今日この頃ですが、Nさんはいつも丁寧なお便りを書いてくださり、一緒に興味深いお知らせを入れてくださいます。郵便切手を貼ってポストに入れて、配達されて届いたお手紙・・・何だか丁寧でフレッシュな感じがしました。
その中に、小さな新聞の切抜きが入っていました。新聞の片隅に掲載された小さなポエムの記事。見逃されてしまうような記事なのにNさんは、心に留めてわざわざ切り取って送ってくださったのです。それは、「ひまわりの色」というポエムでした。
ひまわりの絵を描いた。そこに墨を落としてしまった。その時先生は、「いい絵ですね。このひまわりは悲しみを知っています」と言ってくださったというような内容だったと思います。あるいは、墨でなく黒い絵の具だったかもしれません。この先生の言葉に「一言の重み」を思いました。「せっかく描いたのに、なんてことをしたのです!」と非難されても仕方ない場面です。それなのにこの先生は、ひまわりの絵を褒めてくれたとは!このひまわりは悲しみを知っていると。
ここに人間の言葉のあり方を教えられます。私たちは、今日もさまざまな出来事に出会いながら生きていきます。悲しみを知っているという言葉の中に、人間をみつめる愛のまなざしを思います。
私はこのポエムを読んだ時、イザヤ書の53章が心に響いてきました。多くの痛みを負い、病を知っているイエスさま。わたしたちの病、わたしたちの痛みを担ってくださったイエスさまを思いました。明日は、8月15日、敗戦記念日です。戦争の悲惨さを再び繰り返したくないと固く決意する時ですね。平和の主として私たちに与えられたイエスさまとともに生きていきたいですね。イエスさまが一緒なら、きっと私たちの口からも隣人を非難ばかりする言葉ではなく、きっと平和を作り出す言葉が溢れることでしょう。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷のよって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)