おはようございます。山脇栄子です。
今日は聖書のヤコブの手紙4章の14節「主の御心であれば生き永らえて、あのことや、このことをしよう」という聖句を覚えたいと思います。また、この個所には「自分の命がどうなるか」、「明日のことは分からない」と書かれています。将来はこうしよう、ああしようと思っていても、いついかなることが起きるか分かりません。
前にもラジオ放送を通して、口に絵筆をくわえて、詩と画を描いている星野富弘さんのお話をさせて頂きました。前途有望な青年星野さんは、体育教師となり三か月目に最も得意とする器械体操で首を痛め、寝たきりの生活に入りました。自分では何一つできない日々の中で残された口が動くという機能を通して、絵を描き、詩を書き、詩画として発表し多くの人々に希望と慰めを与えています。言葉では言い尽くすことのできない苦しい日々の中で神様の存在を知り、信仰を与えられ、「主の御心であれば生き永らえてあのことも、このこともしよう」と、日々活動を続けておられます。
私は星野さんと同じ頃に体育教員としてスタートしましたので、星野さんの悔しさやいらだちは身にしみて分かります。いつか退職してフリーになれば、星野さんの描かれた実物の詩画に会いたいと願っていました。
そして、ついにその時が与えられ、富弘美術館まで足を運ぶことができました。彼の本に紹介されているように、群馬県の山深く、山と川と空が一体となった、本当に清らかな山里に、その美術館はありました。ああこの景色だ、ここで星野さんは絵を描き詩を作り、神様に支えられた人生を歩んでおられるのだと納得し、心ゆくまで詩画を楽しんでまいりました。
印象に残る絵の一つは、二尾の鰯がお皿の上に描かれている作品です。これは全てをお母さんに頼っていた頃、やっと口にくわえた絵筆で絵を描き文字を書き始めた頃の作品です。その二匹の鰯は大きな口をあけて目もしっかりと見開いています。その鰯の絵の横に添えられている詩にはこのように書かれています。「鰯を食べようと口をあければ、鰯も口をあけていた、鰯を私の口に運ぶのは母、見ればその母の口もアーンと大きく開いていた、鰯は水から干されたため、私はそれを食べるため、母は子を思う心から、たえまなく咀しゃくを続ける時という口のまっただなかで、二人と二尾の鰯が、精一杯口を開いているさわやかな昼めし時」なんとも微笑ましい情景、また、そこには愛情と生きようとする精一杯の努力が見られます。
寝たきりの星野さんのいらだち、お母さんの忍耐強い介護の日々はいかがであったろうと思います。
星野さんの書かれた本の中には、自分がいつまでもこのように寝たきりの生活が続くかと思うと不安といらだちで、お母さんが口の中に入れてくれたご飯を吐き出して我が儘を言い、ベッドの上や下にまき散らされたご飯つぶを涙を流しながら拾っている母の姿に、申し訳ないと何度思ったことかと綴られています。親はスプーンに載せた一口一口の食物を通して子供の成長を喜び、そこに神様から与えられた生命の尊さを知り、その子供に対して責任を感じるものです。
そのように神様は私たちを育んで下さるのです。自分であれこれ考え、自分の力で何ごともしようとするのではなく、全てを神様にまかせ、神様に支えられていることに感謝するならば、それは祈りとなり、よき方向へと導かれるのです。
星野さんはペンペン草の画と共にお母さんへ感謝の詩をプレゼントしています。「神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら、母の肩を叩かせてもらおう。風に揺れるペンペン草の実を見ていたら、そんな日が本当に来るような気がした。」と綴っています。
明日のことは分からない、でも神様の御心であるならば、あのことも、このこともしようと、希望を持って歩むことの幸せを感謝したいものです。