おはようございます。安芸にあります芸陽教会の宮武輝彦です。
わたしたちは毎日のように人々の悲しみや、痛ましい出来事の知らせを聞きます。そして、それらの多くは人々がお互いに仲良くできないばかりでなく、かえってお互いを傷つけあうことの方が多いことを物語っています。イエス・キリストの苦しみは多くの人々にとって理解できないものでした。それは、人々が想像できないほどの神さまのお考えが隠されていたからです。
聖書のイザヤ書53章には、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」と書かれ、イエス・キリストに対して人々は好意を寄せないどころか、軽蔑をし、見捨てると言っています。まさに、今から2000年ほど前にユダヤの地ゴルゴタの丘の上で十字架刑に処せられたキリストは、この聖書の言葉のとおり、多くの人々にさげすまれて、死なれたのでした。
キリストの教会においてこのように人々から軽蔑され、無視されたイエス・キリストが救い主であることを宣べ伝えるのは、このイエス・キリストの負われた苦しみが、実に、わたしたちのためであったとの聖書の証言を信じるからです。
イザヤ書53章の続きに、「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。」と書かれてあるとおりです。
イエス・キリストの復活の後、ある時、イエス・キリストの弟子であったフィリポという人は、エルサレムからガザへ下る道に導かれました。そこで、エルサレムでの礼拝から帰る途中で、馬車の中で、このイザヤ書53章を朗読している人に会いました。この人はエチオピア人で、女王の全財産の管理をしていた人でした。フィリポは、聖霊に導かれてこの馬車を追いかけ、「読んでいることがお分かりになりますか。」とたずねました。すると、このエチオピア人は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」と言い、「どうぞ教えてください。」とフィリポに頼んだのでした。
馬車に乗って、フィリポはこのエチオピア人のそばで、このイザヤ書53章の聖書の言葉がイエス・キリストについての良い知らせを告げていることを教えたのでした。そしてこのフィリポはこのエチオピア人に洗礼をさずけ、イエス・キリストを信じ受け入れたことをあかししたのでした。
今、わたしたちもこの聖書の言葉を受け入れたエチオピア人と同じように、イエス・キリストが負われた十字架の苦しみが、わたしたちのためであったことを知り、受け入れるとき、わたしたちも罪ゆるされて、神のものとされるのです。それは、多くの人々にとって受け入れがたいものかもしれませんが、聖霊がわたしたちの心に動くとき、この良い知らせをわたしたちに信じさせてくださるのです。
イエス・キリストの福音をひたすら宣べ伝えたパウロという人は、この良い知らせを信じて救われた人々のことをこのように言いました。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。・・それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:26,29)
もし、わたしたちの救いが、自分の力によるものだったとしたら、わたしたちは自分の能力を誇るでしょう。しかし、このキリストの下さる救いは人の力によらない、神からの恵みによるものです。ここには、人間のどのような差別も区別もないのです。あなたも、どうか、イエス・キリストの福音を信じる一人になってください。