おはようございます。山下正雄です。
イエス・キリストの復活を祝うイースターから1週間がたちました。ヨハネによる福音書の20章にはキリストの復活から1週間たった日の出来事が記されています。
イエス・キリストの弟子の一人であったトマスという人は、他の弟子たちが復活のキリストに出会ったときに、たまたまその場に居合わせませんでした。ですから、他の弟子たちが復活したイエス・キリストに出会ったとどんなに言っても、頑としてその言葉を受け付けません。それもそうでしょう。墓の中に3日も葬られた死人が、生きているとは常識的に考えて到底ありえないことだからです。弟子のトマスは悪く言えば疑り深い人です。しかし、よく言えば常識的にバランスの取れた人です。仲間の弟子たちが皆そう言っているからといって、簡単に常識に反することを鵜呑みにしたりはしない人です。
このトマスは言いました。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
自分でしかと確かめてみなければ納得のいかない人です。
復活の日から一週間、再びイエス・キリストは弟子たちの前に姿をあらわしました。今度はトマスもその場所にいました。イエスはトマスにおっしゃいました。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
残念ながらそう言われたトマスが、実際にイエスの傷跡に手を伸ばして指を差し入れてみたのかは記されていません。しかし、トマスがそのときいった言葉が記されています。
「わたしの主、わたしの神よ」
新約聖書には数多くの人が登場しますが、イエス・キリストに面と向かって「わたしの神よ」と直接呼びかけた人はこの人ぐらいでしょう。そういう意味では、どの弟子よりも大きな信仰を言い表したことになります。
さて、このトマスに向かって復活のイエス・キリストはおっしゃいました。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
信仰と言うのは、望んでいる事柄を確信し、目に見えないものを確認することです。聖書はそのように信仰とは何かを教えています。目に見える事実をそうだと確認することは、信仰とは言いません。それはただの事実の確認です。もちろん、何も見ないで、何も聞かないで闇雲に信じることが勧められているのではありません。このトマスのことを書き記したヨハネによる福音書には、「見る」ということが特別によく記されています。イエスに出会ったフィリポは友達のナタナエルに「来て、見なさい」と言って、見ることを勧めています。このヨハネ福音書の冒頭には「わたしたちはその栄光を見た」と記して、目撃の事実を大切に語っているのです。
しかし、それでもイエス・キリストは「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃって、見ないで信じる幸いを説いていらっしゃるのです。
それは復活のキリストを目撃した弟子たちの言葉を通して復活のキリストを信じることです。また、それはただ単に復活の目に見える部分だけを信じるのではありません。キリストの甦りが意味すること、キリストの甦りが与える希望、そのことも含めて目に見えないものを信じ、確認するのです。それが見ないのに信じる幸いなのです。