タイトル: お墓参りと墓前礼拝 島根県 ハンドルネーム・トラさん他
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はお二人の方から、同じようなご質問が寄せられています。まずはじめは島根県にお住まいのハンドルネーム・トラさん、男の性の方からのご質問です。携帯からメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「こんばんは。ラジオいつも聴いています。
さて、キリスト教にはお盆のようなお墓参りはないのですか?」
もうお一方は兵庫県にお住まいのハンドルネーム・「たなかくん」からです。こちらはSNSぱじゃぱじゃのコミュニティ掲示板に寄せられたご質問です。
「キリスト教でも墓前礼拝というのはしますがお墓参りといういいかたはあまりしませんね。キリスト教にもお墓はありますよね。お墓参りとはいわなくてもお墓にいくこともありますね。このへんの微妙な違い教えていただけますか」
お二人の方、ご質問ありがとうございました。ほとんどの日本人にとって、お盆やお彼岸の時などにお墓参りをするのは年中行事のようになっています。もちろん、こうしたお墓参りは日本の伝統的な仏教と深いかかわりをもった宗教的な行事であることは否めません。
トラさんのご質問は、こうしたお墓参りのようなものはキリスト教にはないのかどうかというご質問です。結論から先に言ってしまうと、厳密な意味で同じものはありません。しかし、よく似たものに墓前礼拝というものがあります。
そこで「たなかくん」から寄せられたもう一つのご質問は、キリスト教の墓前礼拝とお墓参りとはどこがどう違うのかというご質問です。
まず、先ほども言いましたが、日本のお墓参りというのは、基本的には仏教の儀式や行事にかかわることです。その場合の仏教というのは仏陀の説いた本来の教えという意味での仏教ではなく、中国を経由して日本に伝わり、日本の永い歴史の中で発展してきた仏教の教えです。
その日本人の行うお墓参りには大きく言って二つの意味があります。
一つは先祖崇拝です。よく言われているとおり、日本の仏教は先祖崇拝と結びついています。平たく言えば、今わたしたちがいるのはご先祖様のお陰であるということです。そのご恩に対して感謝し、ご先祖様を崇める一連の宗教的行為の一つとしてお墓参りがあるのです。
もう一つの意味は追善供養です。追善供養というのは亡くなった人が冥土で幸せに暮らせるように祈り、供物や花を供えたり、お経やお線香を上げることです。そして、そのこと自体が善い行いと考えられ、功徳を積むことと理解されています。
大雑把に言えば、日本人がしているお墓参りの意味はそうしたものです。もちろん、お墓を管理し、きれいに保つという目的でお墓参りをするということもあるでしょうが、それはあくまでも二次的な意味でしかありません。
以上のことをキリスト教的な観点から考えてみると、まず、先祖崇拝という教えはキリスト教にはありません。もちろん、キリスト教では先祖に対する感謝の念をまったく抱かないというわけではありません。そうではなく、むしろ、すべての生命の根源である神にこそ感謝を捧げ、神をこそ崇めるべきであると考えるのがキリスト教の教えです。人間にしか過ぎないものを礼拝の対象とはしないのが聖書の教えです。そういう意味で、先祖崇拝としてのお墓参りをキリスト教はしないのです。
追善供養ということに関して言えば、キリスト教ではクリスチャンの死はこの地上を去ってキリストと共にあることなのですから、ある意味でこの上ない幸福のもとに置かれるわけです。そういう意味で死者のために冥福を祈る必要がないのです。クリスチャン以外の死者について言えば、この地上に生きるわたしたちが死んだその人たちの幸福を左右できるものとは考えられてはいません。むしろその人の幸せを祈るのであれば、生きているうちに神に祈るようにというのがキリスト教の教えです。死んだあとはすべてを神に委ねるより他はないのです。また、死者のための供養それ自体が自分や他人を救う功徳の一つに数えられるということもキリスト教ではありません。救いをもたらす功徳や功績はただ救い主であるキリストだけが勝ち取ってくださるものなのです。それがキリスト教の教えです。そう言った意味でも、追善供養のためにお墓参りをすることはキリスト教ではしないのです。
では、キリスト教会でしている墓前礼拝とはなんなのでしょうか。墓前礼拝が世界中のキリスト教会の習慣なのかは分かりませんが、少なくとも日本のキリスト教会ではしばしばもたれています。それはイースターの日であったり、なくなった人の記念日であったり、そうした機会にもたれることが多くあります。
キリスト教会で「礼拝」という場合には、その対象は唯一まことの神以外にはありえません。従って、墓前礼拝は亡くなった人を礼拝したり、崇めたりする機会ではないのです。
墓前礼拝をするのはあくまでも神を礼拝するためです。特に亡くなったそれらの人々をこの世に送ってくださった神を賛美し、感謝するためです。
また、墓前礼拝を通して、やがては自分自身もキリストのみもとに召される日が来ることを覚えたり、復活の希望を再確認したりするためにも、この墓前礼拝がもたれているのです。
もちろん、愛する人を亡くした人たちを神の言葉で慰める機会であるということも、言うまでもないことです。悲しみを共感し、分かち合うことはすべての人にとって当然あるべきことがらです。
さて、以上の点は主に日本のプロテスタント教会の事情について観てきたわけですが、カトリック教会にはオールソウルズデー(万霊節)と呼ばれる日があります。これは11月2日がその日と定められています。この日は亡くなったすべてのキリスト教信者を覚える日とされています。998年にクルニーのオーディロがその属する修道会に命じて守らせたことが始まりといわれています。
それに対してプロテスタント教会には特にこのオールソウルズデーをまもる習慣はありません。
ちなみに、オールソウルズデーの一日前はすべての聖人を覚えるオールセインツデー(諸聖人の日)と言われていますが、プロテスタントの場合には聖人と平信徒という区別もありません。
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