タイトル: キリスト教的埋葬の方法は? ハンドルネーム・よしさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルンネーム・よしさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、突然のメールで失礼いたします。ふと思ったのですが、キリスト教的な葬り方というものが何かあるのでしょうか。
唐突な質問でびっくりされるかもしれませんが、たとえば、法律的な問題は別として、お墓を持たないで散骨を希望するというようなことはキリスト教信仰に反することなのでしょうか。というのは、日本のことしか知らないわたしにとっては、キリスト教の埋葬が遺体を火葬して骨だけをお墓に収めることに、何の疑問も持ってはいませんでした。しかし、西洋のキリスト教会では土葬するのが常識のようです。もちろん、わたしは実際に西洋のキリスト教会の葬儀に参列したことがありませんから、映画の場面で得た知識を受け売っているだけなので、正確な情報ではないかもしれません。しかし、どっちにしても、映画で行なわれる埋葬の場面や日本の教会で行なわれている埋葬の場面を見比べていて、いったいキリスト教的な埋葬のあり方というものがあるのだろうかと疑問を感じたわけです。
埋葬に関して、聖書の教えがもしあるのでしたら、それについて教えてください。よろしくお願いします。」
よしさん、メールありがとうございました。確かに外国の映画、特にキリスト教の影響のもとに暮らしてきた人々の映画の中で行なわれる葬儀の様子を見ていると、土葬しているものがほとんどです。実際私自身がアメリカに住んでいたときに参列した葬儀は、最後は墓地まで行ってそのまま土葬するものでした。それに対して、わたしが実際に参列した日本の教会での葬儀で、火葬以外の方法で埋葬をする実例に当ったことは一度もありません。
もちろん、日本では埋葬に関する条例で火葬以外の方法で埋葬することが禁じられている地域もあります。しかし、法律的には現在でも火葬・土葬のどちらの方法でも埋葬は可能です。ただ、実際的には諸般の事情で土葬することは大変難しくなっていることは否めません。現に法律的には火葬と土葬を選べるようになっていても日本では99.7%が火葬による埋葬方法を取っているのが現状です。
けれども、日本のキリスト教会が何も考えることなく日本の風習と時代の流れに身を任せてきたのかどうかは、これだけのことから断定はできません。残念ながら、わたし自身詳しく調べたことがありませんので、日本で最初の日本人のキリスト教葬儀が、火葬で行なわれたのか、土葬で行なわれたのか、その記録を知りません。また、日本で最初に火葬で行なわれたキリスト教葬儀がいつどこでどのように行なわれたのか、その記録も知りません。ただいえることは、海外から入ってきたキリスト教ですから、それを持ち込んだ宣教師たちが、自分たちの風習と異なる埋葬の仕方を日本のキリスト教会が取るようになれば、必ずそこには議論が起ったであろうということが推測できます。その推測が正しいとすれば、日本の教会が日本の長年の風習にただ流されていたとは考えにくいように思います。
ところで、聖書自体は埋葬について特別に何かを語っているのでしょうか。旧約聖書の創世記にはアブラハムがその妻サラをマクペラの畑の洞穴に葬った記事が出てきます(創世記23:19)。特に火葬したということがでてきませんから、普通に考えて土葬にしたと思ってよいでしょう。そして、なぜ土葬にしたのかという特別な理由がそこに記されているわけではありません。
あえて聖書的な根拠を捜すとすれば、創世記3章19節に記された「お前がそこから取られた土に、塵にすぎないお前は塵に返る」という言葉のとおり、人が取られた土に遺体を戻すというのは自然なことと思われたのかもしれません。
普通の埋葬に関して、聖書が語る方法はほとんど土に返すという方法です。これはイエス・キリストご自身が葬られた時も同じでした。新約聖書時代のクリスチャンが旧約聖書時代の方法とは特に違った方法で葬られたという記事があるわけではありません。ですから、復活信仰が直ちに埋葬の形式を根本的に変えるようなこともなかったのです。
以上のことから考えると、聖書が特に火葬を避けているというよりは、火葬による埋葬方法が問題となるような状況を経験したことがなかっただけなのかもしれません。
なるほどアモス書の2章1節に記されたことばは遺体を焼くことは異常なこと、忌むべき罪と思われていたように思えます。
「モアブの三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。 彼らがエドムの王の骨を焼き、灰にしたからだ」
しかし、これは火葬を扱った記事ではなく、死者に鞭打つような仕打ちに対する非難と理解した方がよさそうです。
さて、聖書時代より後になってキリスト教の葬儀にいくつかの変化と特徴が現われてきたことが知られています。そして、その変化をもたらしたのが復活信仰であったことは言うまでもありません。たとえば、ローマの世界では埋葬は夜行われるものであったといわれています。それは葬儀というものが不吉なものと思われていたからです。それに対して、キリスト教会では葬儀を昼間に行うようになりました。それはキリストの復活が死に対する勝利を物語っているからです。死はもはや不吉なものでも恐れるものではなくなったからです。
あるいは、また遺体を葬る時に、足を東に向けて葬るようになったのも、義の太陽としてこられる再臨のキリストを迎えるときに自然に起き上がってキリストと対面できるようにとの考えからであるといわれています。このような埋葬の仕方の変化は明らかに復活信仰がそのベースにあると考えられています。
こうして生まれてきたキリスト教的な埋葬方法の習慣から考えると、火葬による方法がそれと馴染まないといいうのは素朴に考えて理解できることであると思います。ですから、サルトルのように火葬にされることをあえて希望することは、自分が反教会的な無心論者であることを言い表すのと同じ事と考えられる風潮もあったのです、
しかし、カトリック教会では1963年に火葬が許されるようになりました。またイギリスの国教会でも式文自体を改め、伝統的なburial(埋葬式)という言葉を避けて、funeral(葬儀)という言葉使うようになっています。これは火葬による埋葬が増えつつある現状を踏まえてのことです。
こうした近年の教会の動向から考えると、土葬であることは必ずしもキリスト教信仰にとって必須の条件ではないと考えられているようです。実際にはキリスト教国においても、近年火葬による埋葬が増えているようです。チェコとイギリスでは70%をこえる普及率であるといわれています。
要するに聖書は特定の方法を埋葬方法として明示しているわけではありません。ただ、キリスト教の信仰と明らかに矛盾するものは受け入れられないということだと思います。
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