BOX190 2007年10月10日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか 愛知県 A・Kさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのA・Kさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しみに聞かせていただいています。先生のソフトで明快なお答えにいつもなるほどと感心しています。
 さて、わたし自身が質問されて困ってしまう問題について、質問させていただきたいと思いメールしました。それは、苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか、という問いです。
 わたし自身はのほほんとと信仰生活を送って来ましたし、あまり深く物事を考えなくても信じることができる人間ですので、そんなことを深く思ったこともありませんでした。それは自分が幸せで世間知らずなだけかもしれません。あすを思い煩わなければならないほど苦しい思いをした経験などありません。自分より不幸な人を探し出せばいくらでも見つかると思います。だから暢気に神様を信じていられるんだといわれればそうなのかもしれないと思ってしまいます。
 こんなわたしの信仰生活を見て、意地悪にも『苦難の中にも神様はいらっしゃるのか』と難しい質問をしてくる人がいます。ヨブのように苦しい目に遭えば、きっと神様など信じられなくなる、といいたいのでしょうか。それとも、その人が神様を信じられないのは、この世の中に苦難があるからだと、自分を正当化しているのでしょうか。
 苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか。この質問に山下先生ならどうお答えになりますか。ぜひ教えていただきたいと思います。」

 A・Kさん、メールありがとうございました。「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」という疑問をいだくのには、その人その人の価値観や人生観が大きく影響しているように思います。また、その人が生きてきた体験によっても、そう思う度合いは違うのだと思います。
 そもそも「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」という質問そのものの中に既にいくつもの前提があり、そのことを問う人の物事の考え方が現われてきているように思うのです。
 まず大きな前提は、「人間は幸福であるべきだ」という前提です。確かに人間すべてが幸福であることは誰もが望んでいることのように思います。また、すべての人間は幸福であるべきだという人生観や世界観は否定すべきものでもないでしょう。しかし、幸福とは何かということは、人によって受け止め方がまったく異なるものなのです。
 「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」という疑問を抱く人にとっては、少なくとも苦難と幸福とは相容れないものであるという前提があるのです。苦難のある限り幸福であるはずがないと思っているのです。そのことも、確かにあながち否定はできないでしょう。
 ただ、さらに深く考えると、「苦難」とは何かという問題が出てきます。それともう一つは「苦難」があるということは、神がいないということの証明なのかという問題です。あるいは、苦難を幸福に変えるのが神の役目で、そのためにこそ神は信じられるべきものなのだという前提です。
 「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」というわかりきった質問も、実は質問自体が、問う人によってイメージしていることが違うのです。

 先ずは「苦難」ということを考えてみましょう。メールの中でA・Kさんは「あすを思い煩わなければならないほど苦しい思いをした経験などありません。自分より不幸な人を探し出せばいくらでも見つかると思います。」と書いていらっしゃいます。しかし、それはA・Kさんの主観もあると思うのです。もし、誰かがA・Kさんにかわってその暮らしを送ってみたときに、思い煩いばかりするかもしれません。自分より幸福な人間をたくさん見つけてねたましく思うかもしれません。そして、人生は苦難だらけだと感じるかもしれないのです。
 たとえば、災害で財産と家族を失った人がいるとします。もちろん最初は受けた被害の中で苦しい生活が続きます。やがてその悲しみと苦しみの中から立ち直り、以前ほど生活は楽ではないかもしれませんが、今生きていることを幸せに思えるようになったとします。そして、過去を振り返ってみたときに、それでも神様はいらっしゃって、今も自分と共にいてくださると、そう感じたとします。
 この人にとっては「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」という問いは、問いにすらならないことでしょう。それともその人に向かって、「あなたは以前の生活と比べて決して幸せであるはずがない」と諭すべきなのでしょうか。「あなたは勘違いしている」と教えてあげるべきべきなのでしょうか。

 「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」という問いは一見、とても哲学的で高尚な問いのように聞こえるのですが、言い換えれば、「わたしは自分の描いた幸福を手に入れられないときにも神を信じるべきなのですか」というのとほとんど変わりのない質問なのです。果たして、そのような質問にどれだけ真面目に答える価値があるのでしょうか。どんな生活であれ、その人が今ある生活を受け容れている限り、その人にとって神はどんなときにでも共にいてくださるお方であると言うことではないでしょうか。逆に、今ある生活を受け容れられない人にとっては、どんなときにも神を身近に感じることはできないということなのです。

 それから、もう一つ、「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」という質問には「神は人間の苦難を幸福に変えてこそ、神として認められる」という考えが暗黙のうちに込められています。言い換えれば、苦難が存在することは全能の神がいないと考えるのか、いたとしてもほとんど役に立たない、信じるに値しない神だということなのです。
 しかし、これもよくよく考えてみると、苦難の意味についての考えをストップして、神に苦難の責任を押し付けているだけのように思うのです。

 「皆が幸せであるべきだ。そして、そのために神は働いている」と考えるのは一見正しいようですが、先ほども見たとおり、幸せをどうとらえるかは人それぞれなのです。それぞれの幸せを求めているからこそ、利害が衝突して戦いや争いが起ることもあるのです。そして、残念なことに一度得た幸せを犠牲にしてまで、他の人が幸せになることをあまり望まないのです。「皆が幸せであるべきだ」ということを追い求めることは、結果として「皆が幸せにはなれない世界」を作り出しているともいえるのです。
 「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」…こう問いかけることで、人間の矛盾した生き方が生み出した苦難について深く考えないように話題を摩り替えているに過ぎないのです。

 「苦難の中にも神様はいらっしゃるのですか」、このことを問うている質問者は、結局何を問題として問い掛けているのかもう一度よく質問の意味を考えてみる必要があると思うのです。

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