タイトル: 神様は残酷? 千葉県 S・Iさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのS・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生こんにちは。番組をいつも楽しく聞かせてもらっています。
さて、今日は『神様って残酷だね』と友人に言われ、私は答えに窮してしまい、よいアドバイスをいただけたらいいなと思いメールしました。
彼は、友人につれられ、教会のイベントに参加して、ひとりの女性を前にしたそうです。モデルさんのようで、ボーっとしていたそうです。問題というのはそのイベントの後のことで、電車を降りて、歩いているとき、やはり前に女性が歩いていました。その人が、ゆっくりゆっくりしているので追い越したのだそうです。どんな人なのか、振り返って見てびっくりした。知的障碍の若い女性だったというのです。そのとき彼は『なんてことだ。彼女は運命を呪わないのだろうか? ボクになにができるだろう。神は一体何をいいたかったのだろう。神は時として残酷だ。これからどうやって行くべきか』と思ったそうです。
聖書には生まれつきの盲人がいやされた話がありますが(ヨハネ9:1-12)、『でも、今は奇跡の時代じゃない』と友人からいわれてしまいました。さらに友人は、「わきを向いてはいけないって、神様はいいたかったんだんだろうなぁ」とも言いました。
結局『愛の神さま』を伝えられずじまいでした。先生、どうやって『愛の神さま』をこの友人に伝えるたらよいでしょうか。わたしによいアドバイスを下さい。」
S・Iさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。S・Iさんのメールを読んでいて、15年程前のある出来事を思い出しました。その出来事というのは、教会の中がどれほどノーマライゼーションが進んでいるかという調査にかかわることでした。ノーマライゼーションというのはご存知かもしれませんが「障害者を排除するのではなく、障害を持っていても健常者と均等に当たり前に生活できるような社会こそがノーマルな社会である」とする考え方です。日本でも駅にエレベータなどの設置が進み、バリアフリーという考え方が出てきたのもノーマライゼーションの考え方と密接な関係があります。
それで、教会がどれくらいノーマライゼーションと取り組んでいるかという調査で、ある教会の牧師が「うちには障害者などおりません」という回答を寄せてきたというのです。この牧師の回答を小耳に挟んだ人たちがこの牧師を非難して、「なんと問題意識のない教会だ。これだから教会のノーマライゼーションは進まないんだ」と嘆いたということがあったのです。
確かにその教会にはたまたま障害を持った人がいなかったので、素朴に「いない」と答えただけなのかもしれません。しかし、たとえそうだとしても、「なぜ自分たちの教会には障害を持った人たちが集まりにくいのか」と考える発想が欠けていることに、ノーマライゼーションを進めようとする大方の人たちは憤りを覚えたのです。
ところが、ほとんどの人がその牧師の意識を非難する中で、一人、その牧師を弁護する発言がありました。それは、その牧師の教会ではほんとうにノーマライゼーションが進んでいたのではないかという意見でした。確かに、ノーマライゼーションが完璧に進めば、障害者が障害者であることを感じないくらい快適な社会になるはずです。いいかえれば、障害を持った人がいつまでもその障害に苦しむ社会ほど、ノーマライゼーションが進んでいないということになるのです。であるとすれば、「うちの教会には、障害者などおりません」という回答は、「うちの教会では障害を障害と感じる事がないくらいノーマライゼーションが進んでいる」という意味に取るべきではないのか、というのがその弁護した人の発言でした。
実際、その牧師がどういう意図でそんな回答を寄せてきたのか本当のところは分かりません。ただ、このやり取りを通して、物事をどのように見るのかという発想のあり方を教えられたように思いました。
S・Iさんのお友達は、知的な障害を持った一人の女性を見て「なんてことだ。彼女は運命を呪わないのだろうか?」と思ったそうですが、どうしてそう思ったのでしょうか。確かにS・Iさんのお友達にはこの女性がとても不憫に感じられたのでしょう。もちろん、そのような状態に置かれたのは、この女性本人が望んで選んだわけではありません。そうであれば、なおのこと可哀相に思われたに違いありません。それで「運命を呪わないのだろうか。神は時として残酷だ」という発言になったのだと思います。
しかし、そのお友達が見たという女性がほんとうに不幸せで可哀想だと仮定して、いったい、その不幸や不憫さの原因はどこにあるのでしょうか。…回りくどいことを言って申し訳ないのですが、その人がほんとうに不幸せで可哀想であるかどうかは、本人に聞いてみないとわからないことです。また、家族の方がどう思っていらっしゃるのか、それもまた聞いてみなければわからないことです。とにかく、本人もその家族も自分たちが不幸せで可哀想だと思っていると仮定して、そのような思いをさせている原因は一体どこにあるのだろうかということです。
ノーマライゼーションの発想から言えば、障害そのものが不幸せの原因なのではありません。そうではなく、その障害をノーマルなものとして受け容れない人間社会のあり方こそが人を不幸せにしていく原因だということです。それを運命のせいにしたり、神の残酷さのせいにしたりするのは責任の転嫁でしかないように思うのです。そうすることで、自分の責任を言い逃れしているに過ぎないのです。
障害者であるのか健常者であるのかという区別は、ある意味で人間が作っているものです。例えば、階段一つを例にとって見ましょう。その階段を自分ひとりで昇れない人を障害者であると見なしたとしたら、階段の作り方一つで人は障害者になったり健常者になったりするのです。階段一段の高さが一メートルもあるような階段ばかりだとしたら、かなり多くの人にとっては自力でその階段を昇るのには無理があります。そんな階段ではみんなが障害者で、みんなが不便で不自由な暮らしになってしまいます。そんな不便は階段を直しさえすればよいことです。
つまり、生まれついた何かが人間を不幸にしたり、不自由にしたり、不便を強いたりしているのではないのです。人間の作るものが、それが道具であれ、制度であれ、機会であれ、ある人には利益をもたらし、他の人はその利益から排除しているだけのことなのです。障害とはその差別の結果生まれるものなのです。
こうした発想の転換の中に、わたしは神の愛を感じています。そして、この社会がそういう考えのもとに作られていくことを神が望んでいらっしゃるとわたしは信じています。
人間が誰一人として同じではないということは厳然たる事実です。神がそのように人を一人一人異なった個性と能力を持ったものとしてお造りになったのです。その一人一人が差別されることなく、尊重され、同じ幸福感で満たされることが神の望んでいらっしゃることなのです。そういう社会こそ神の愛がまっとうされた社会なのです。それを阻んでいるものは、まさにわたしたち人間の罪深さなのです。神は残酷なお方なのではありません。わたしたち人間が人に対して残酷なふるまいをしているだけなのです。しかも、その責任を神が人を規格品のように同じに造らなかったせいにしているだけなのです。
神の御心を行うこと、それによって神の愛がまっとうされていくこと、そのことこそ人間に求められていることだと信じます。
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