BOX190 2007年5月2日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: ルカ福音書にない大きな部分 東京都 S・Fさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのS・Fさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を通していろいろと学ばせていただいています。ありがとうございます。
 さて、どの番組だったか忘れましたが、先生はルカによる福音書にとても興味があるというようなお話を聞いた覚えがあります。確か先生のハンドルネームはルカだったと記憶しています。
 そこで、ルカによる福音書について質問があります。
 実はわたしは今ルカによる福音書を他の二つの福音書と読み比べています。他の二つと言うのはマルコとマタイです。ルカ福音書とあわせてこれら三つの福音書はとても似ていながら、しかし、いろいろなところで違っています。その違いに興味を覚えながら読んでいます。
 そこで質問なのですが、ルカによる福音書は9章17節のあとマルコ福音書やマタイ福音書と大きく違っています。具体的にはマルコ福音書やマタイ福音書が書き記している記事がまったく抜け落ちていて、ルカ福音書9章18節のところ、つまり、ペトロの有名な信仰告白の場面のところで他の福音書に再び戻っています。なぜ、ルカ福音書はそれまでほとんどマルコ福音書やマタイ福音書と同じような順番で同じような事柄を書き記していたのに、9章17節と18節の間に書き記すべきたくさんの事柄を抜かしてしまったのでしょうか。その理由を教えてください。
 分かりにくい説明で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。」

 S・Fさん、お便りありがとうございました。S・Fさんはとても詳しく聖書を学んでいらっしゃるようですね。三つの福音書を最初から最後までじっくり読み比べると言うことは、研究者でもない限り中々しないものです。ある話がこっちの福音書にはあるけれども、あっちの福音書には記されていない、というレベルのことならば知っている人は多いと思います。しかし、ルカ福音書の9章17節と18節の間にあるべきと想定される部分が丸ごとなくなっているということに気がつくのは、よほど熱心に読み比べていかないと気がつかないことです。そういう意味でS・Fさんはとてもよく聖書を読んでいらっしゃるのだと感心しました。

 さて、S・Fさんもご存知の通り、最初の三つの福音書は観点を共にしていると言う意味で共観福音書と呼ばれています。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は同じ視点から出来事を眺めているようにとても似通っています。しかしまた同時に、大変に似通っているのですが、細かい違いや、場合によってはご質問に出てきたような大きな違いもあります。こうした共通点や違いがどうして起るのかということは新約聖書を研究する人たちの大きな研究テーマでした。
 話せば長くなるのですが、そもそもそうした研究の発端は、歴史的なイエスの伝記を書くための資料をどのように評価するのかと言うところから始まりました。そして、新約学の研究が出した大多数の結論は、マルコによる福音書が一番最初に書かれたというものでした。そして、他の二つの福音書はマルコによる福音書を手本にしながら、独自の資料を加えてそれぞれの福音書を完成させていったというものです。その独自の資料として、一つにはマタイとルカ福音書に共通した資料、それから、マタイ福音書だけに独自の資料、さらに、ルカ福音書独自の資料が考えられています。

 さて、ご質問のルカ福音書9章17節というのは、マルコやマタイ福音書と共通して5000人の給食の奇跡を記し終わった箇所です。細かな違いは別として、ここまでのところは大体、三つの福音書とも大きな流れに違いはありません。ところが、5000人への給食の話の後、マルコ福音書とマタイ福音書は共通して話を進めていくにもかかわらず、ルカ福音書の方では有名なペトロの信仰告白の話にまで一気に飛んでしまいます。
 先ほど紹介したマルコ優先説と言うことを前提に考えると、この違いは大きく分けて二つの可能性が考えられます。
 一つはルカ自身の意図ではなく偶発的にそうなってしまったという可能性です。もう一つはそこにルカの福音書編纂意図があるという可能性です。

 ルカが特別に意図したわけではないとする可能性にさらに二つの可能性が考えられます。
 一つはそもそもルカが手本にしたマルコ福音書は、残念なことにその部分が抜け落ちていたという可能性です。もちろん、マタイにしてもルカにしても、マルコ福音書を持っていたのは直筆のものではなくて、書き写された写本であったと思われます。その写本が何らかの事故で最初から問題の部分が欠落したものであったとすれば、違いが出てくるのは当然です。
 もう一つの可能性は、それとは逆に、もともとのルカ福音書には問題の部分が書き記されていたのだけれども、流布しているうちにその部分が欠落してしまったというものです。
 しかし、このどちらの可能性もほとんど考えることはできません。まず、どちらの場合にしても、話のうまい区切れで写本がちぎれるとは考えられません。また、書き写す人が、数行ならいざ知らず、そこまで大量な行数を読み飛ばしてしまうとは思えません。そして、どちらの場合にしても、抜け落ちた写本とそうでない写本がそれぞれ大量に書き写されることが予想されるはずですが、実際にそれを裏付けるようなタイプの写本は知られていません。

 では、なぜルカ福音書は5000人の給食の奇跡を描いた後、マルコ福音書の記事から離れてしまったのでしょうか。それが偶発的な理由でないとすれば、考えられるのはルカが意図してそうしたのだろうという可能性です。
 では、どんな意図がそこにはあったのでしょうか。どんな意図でルカ福音書はマルコによる福音書の取り上げている記事を割愛して、一気にペトロの告白の記事まで飛んでしまったのでしょうか。実はそれこそが学者たちが必死でその理由を研究している大きな課題なのです。そして、残念ながらまだ学者の間でも一致した見解が見当たらないのが現状です。

 非常に大雑把ですが、ルカが意図的にその部分を省略したと考えられる理由が三つぐらい挙げられています。

 その一つは当時の書物にはある程度のスペースの制約があったため、ルカは他の独自の資料を加えたいがために、マルコ福音書の記事を大幅に削ったというものです。ただ、そうだとしても、なぜ他の箇所ではなく、その部分なのかと言う疑問は残ります。そして、同じことはマタイにも言えるはずです。
 二番目の考えられる理由は、重複記事をさけるという意図から出たものだというものです。ルカ福音書は、似たような記事がある場合に、一方を残し他方を省略すると言う傾向があります。しかし、問題となっている箇所は、すべてルカ福音書のほかの箇所に似たような記事が出ているとは限りません。
 もう一つ、三番目に考えられる理由は、地理的な理由によると言うものです。ルカ福音書はできる限りガリラヤ周辺で活動するイエスを描くと言う目的で、地理的にあちこち飛んでしまう記事を割愛してしまったというのです。

 以上、大雑把に見てきましたが、S・Fさんもぜひ、どんな意図があるのか、あるいは、ただの偶発的な事故によるのか、いろいろ理由を考えてみてください。
 もちろん、マルコ優先説に立たないと言う立場からの研究も視野に入れれば、いろいろな考え方ができるかもしれません。

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