BOX190 2007年4月11日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 救いとは何ですか 愛知県 匿名希望

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいの匿名希望の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生。こんばんは。わたしは生まれた時から教会に行っています。BOX190の番組もインターネットにて聞かせていただいています。
 さて1月10日に放送された「どっちが幸せなのでしょうか」を聴きまして、以前から思っていた質問がまた湧き上がってきました。あの放送を聴いて気になった言葉がいくつかあります。
 『揺るぎがたい救いの祝福の約束』『救いの必要性』
『救いに必要なすべてのこと』などなど。「救い」とはいったい何かと言う疑問です。
 以前昨年の4月頃だったと思いますが、教会の学び会に参加していて、『救い』と言う話題が出たとき『救い』とはいったい何か?と言う話になりました。
 山下先生は 『救い』ってなんと思われますか?
 私なりの答え…救いとは何か? 苦しいときにでも 祈ることができること 聖書による希望があること…
 救いってなんですかね。」

 愛知県にお住まいの匿名希望さん、メールありがとうございました。番組をいつも聴いていてくださって嬉しく思います。「救いとは何か」…これはクリスチャンならだれでも答えられなければならない大切な問題です。しかし、実際、言葉に表して言おうとすると、中々簡単ではないと言うことに気がつくと思います。それは、ただ単に勉強不足で答えが中々書けないというようなものではないと思います。確かにこちらの側の力量不足や勉強不足で答えがうまく言い表せないということもないとは言えません。しかし、それ以上にキリスト教の救いは奥が深いので、一言二言で言い表せないというのも本当だと思います。
 それから、もう一つの問題は、たとえ自分なりの言葉でキリスト教の救いについて表現できたとしても、キリスト教を信じていない人にそれを理解してもらえるかはまた別の問題です。それも、確かにこちらの表現不足という問題もあるかもしれませんが、物事を見たり考えたりする土台が根本から違っていれば、お互いのもコミュニケーションを取ることはとても難しいものがあります。キリスト教の救いについて尋ねられて、すぐにすらすらと答えられないのは、そうした人生観や価値観から来るコミュニケーションのギャップがあることを知っているので、答えにくいということもあるのです。

 それはさておくとして、分かりやすい「救い」の定義と言えば、昔から言われているように家内安全とか無病息災とか商売繁盛などの言葉が浮かびます。では、これらのことを求めてはいけないのかというとそういうことではないでしょう。しかし、キリスト教的な視点で見ると、これらの救いには二つほどの問題があります。一つは、それらは結果として与えられるものであって、それ自体が救いの目的ではないということです。イエス・キリストは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)とおっしゃっています。「これらのものはみな加えて与えられる」という「これら」には家内安全とか無病息災とか商売繁盛などのすべても含まれるでしょう。しかし、それは結果であって、第一に求める救いとは違うのです。
 もう一つの問題は、それらのものが救いの結果もたらされるものであって、救いそのものではないとしても、実際の世界では、この結果は必ずしも明確ではないという現実があるということです。教会に行って洗礼を受けた人が100%安全な暮らしを送り、病気にもならず、商売も成功すると言う結果が明らかであれば、誰にでもそのことを説得力をもって語ることができます。しかし、救われていると言うクリスチャンであっても、病気になる人もいれば、事業に失敗する人もいます。もちろん、そういう人は本物のクリスチャンではないと言ってしまえば問題は簡単かもしれません。しかし、逆の場合もあるのです。クリスチャンでない人でも健康で病気一つせず、事業も順調に行く人の場合です。「その人は本当はクリスチャンなのです」とは言えないでしょう。救いの結果、「これらのものはみな加えて与えられる」とはいっても、現時点で与えられたものを見て、その人が本当のクリスチャンであるかないかを判断することは極めて危険なのです。

 キリスト教の救いについて語ることを難しくして一つの事柄は、「救い」ということを二つの時期に分けて聖書が語っているからです。キリスト教にとっての救いは、イエスキリストが「罪を取り除く神の小羊」と呼ばれているように、「罪からの救い」です。そういう意味では、キリスト教の救いは簡単に定義することができます。ただ、それがどのように実現するのかということについての「二つの大きな時期」について知っておかなければならないのです。
 その大きな二つの時期とはキリストの最初の到来とキリストの二度目の到来です。
 最初の到来と言うのは、文字通り、イエス・キリストがお生まれになり、十字架の上で死なれ、復活されるところまでの時期です。キリストはこの地上での活動を通して救いに必要な条件をすべて整えてくださったのです。罪の支配を打ち破り、勝利を収められたのです。今、わたしたちが与っている救いと言うのは、このキリストが勝ち取ってくださった救いです。わたしたちはキリストのゆえに、神の御前で罪の赦しをいただき、神の子とされ、聖霊をいただいて日々清くされつつあるのです。
 しかし、罪の燃えかすが完全にたたれてしまうのはキリストが再びやってきて下さる再臨の時です。それは「神の国の完成の時」とも言うことができますし、また「万物の更新のとき」とも言うことができます。
 今、わたしたちが生きている時代は、キリストの最初の到来と次の到来、つまり再臨の時との丁度中間の時代なのです。中間といっても「宙ぶらりん」と言う意味ではありません。救われているんだか、救われていないんだか、どっちつかずの時代と言うのではありません。
 確実に救いの完成へと向かって、時代は進んでいるのです。そして、キリストの再臨の時までの時代を生きるわたしたちは、やがて完成される神の国の前味を味わっているのです。
 お便りの中にもありましたように「苦しいときにでも祈ることができること、聖書による希望があること」…これらはどの一つをとっても、キリストがわたしたちに勝ち取ってくださったことです。もちろん祈ることも聖書を読むことも、キリストがやってこられる前にも神の選民であるユダヤ人たちには馴染みのあることでした。しかし、キリストによってもはや民族の壁が取り払われたと言うばかりではなく、神と私たちとを隔ててきた罪の中垣さえも取り払われているのです。ですから、イエスの名によって大胆に祈ることができるのです。イエス・キリストが弟子たちに聖書の意味を解き明かしてくださったので、クリスチャンは旧約聖書が語ってきた内容をいっそう深く味わう特権をいただいているのです。そこに語られている希望を大胆に確信し、神の国の完成の日を揺るぎないものとして望むことができるのです。キリストの再臨の日を待ち望んでいるからこそ、万事を益としてくださる神の恵みと導きとに現在の自分を委ねて平安でいることができるのです。

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