BOX190 2007年3月28日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 神が与える癒し・慰めとは 大阪府 K・Nさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大阪府にお住まいのK・Nさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、一つ教えて欲しいことがあります。よろしくお願いします。
 ペット(犬、ネコ)は人に慰めを与えたり、癒してくれたりします。それは犬、ネコは目の前にいてくれて、側にいてくれるからです。
 どうしたら、神に慰めてもらえるのか、癒してもらえるのかを教えて欲しいと思います。目に見えないものに、どうしたら傷ついた心を治してもらえるのか、癒されるのかを教えてください。
 もう、どうしてこの世の中、人を傷つけて平気で笑っている人がいるのか、どうしてそういう人に限って、何も悪いことが起らないのか、神って本当にその人以上に、人の不幸を笑って見ているだけではと思います。一度、そういう人をギャフンと言わせてよ、と言いたいです。
 救われること=癒されること=慰められること、と言うことでしょうか。どのようにしたらいいのか、教えてください。お願いします。」

 K・Nさん、お便りありがとうございました。K・Nさんのおっしゃる通り、どうして人を傷つけて平気で笑っている人がいるのか、またどうしてそういう人に限って、何も悪いことが起らないのか、不思議に思うことがあります。逆に真面目で正直な者が苦しい目にあって、また、そういう人に限って度重なる不幸に見舞われるということもあります。起こる現象だけを見ていると、人生に何も法則がないような気さえしてきます。もちろん、私たちの見ている世界はほんの一部です。すべての人の人生の結果を踏まえて、真面目に正直に生きたほうが良いのか、適当に生きていても大丈夫なのか、はたまた、人を傷つけてまでも生きたほうが本当は得なのか、そんな詳細な研究をした人などいないと思います。従って人生は真面目に生きるのがバカバカしいと早急に結論付けてしまうことはできません。ほんの一部の目にした現象を見て、神様などいないと結論付けてしまうのはどうかと思います。
 さらに、もっと言わせてもらえれば、真面目に正直に生きたほうが良いのか、適当に生きていても大丈夫なのか、はたまた、人を傷つけてまでも生きたほうが本当は得なのか、そもそも、そんな統計は取ることもできませんし、とったとしても意味がありません。第一、「良い」とか「得」という基準自体が、受け止める人の価値観によってバラバラだからです。
 たとえば、ある期間を定めて統計を取るとします。十年間不正な手段を駆使してお金儲けをするのと、十年間ひたすら正直に真面目に働いてお金をもうけるのと、どちらがお金が儲かるか、という統計を取ったとします。そして、その調査の結果、明らかに不正なやり方の方がお金が儲かるとします。
 しかし、だから不正なやり方でお金儲けをした方が良いとか得だとか、そういう判断はまったく別のものです。いくら客観的にお金が儲かったとしても、またいくらそれで自分の寿命を幾らかでも延ばせるとしても、そんな生き方が良いとも、得だとも、幸福だともわたしは思いません。
 なぜ、そう思わないのかというと、人の本当の幸福は、十年や二十年、いえ、この地上の生涯だけでは言い尽くせないものがあるということを聖書によって教えられているからです。神がいつかはこうした矛盾をすべて清算される時を用意しておられることを信じているからです。

 K・Nさんのおっしゃるとおり、確かに、目に見えない神から慰めや癒しを受け取るというのは、ピンと来ないかもしれません。しかし、キリスト教にとって、神からの慰めや癒しというものは、基本的には神の言葉である聖書の御言葉から受けるものです。神ご自身が聖書の言葉と共にわたしたちの心に働きかけてくださる時に、与えられるものです。ですから、神からの癒しや慰めをいただきたいと切に求めるのでしたら、何よりも聖書の中で語ってくださる神の言葉に耳を傾けていただきたいと思います。特にK・Nさんと同じ悩みに苦しんだ旧約聖書の詩編73編の詩は教えられるところが多いと思います。
 しかし、また、この地上で生きているときに、すべてが清算されるのでなければ、生きる意味がないではないかという反論もわからないではありません。K・Nさんのおっしゃるとおり、不正であくどい人たちを今すぐにでもギャフンと言わせてください、という気持ちは当然のことだと思います。旧約聖書の詩編にはそうした心の叫びがいくつも出てきます。
 ただ、わたしは、神がまったくこの世の中を放置状態にしているとは思っていません。神は恵みによってこの世を治める権能を国家に与えてくださっています。ですから、たとえそれが氷山の一角しか暴かれない悪であったとしても、毎日の新聞には、不正や悪が発覚し、国家の機関によって裁かれる記事があふれているのではありませんか。不正の発覚の記事やいじめの記事が新聞に取り上げられるたびに、それは世の中がますます悪くなっている証拠だと思うかもしれません。しかし、裏を返せば、そのことは、事件の再発防止に向けての対策がいろいろなレベルで話し合われるきっかけにもなっているのです。そうしたことも神の働きかけであると信じています。

 しかしそれにしても、なぜ、神はもっと早く直ちに不正を一掃してあらゆる矛盾を清算されないのでしょうか。この疑問ももっともなことと思います。しかし、それに対しては、神だけが深い意図をもってふさわしい時をお定めになっているとしかお答えしようがありません。
 ただ、二つばかり、聖書の箇所から申し上げることができると思います。
 一つは、神の忍耐という問題です。ペトロの手紙二の3章9節にこんな言葉があります。
 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」
 最後の審判の時が一刻も早く実現しないのは、あらゆる人に悔い改めのチャンスを与えるために神が忍耐強く待っていらっしゃるからです。したがって自分が神からの憐みを受けて救われたのと同じように、他の人が救われるのを待つことはとても大切なことなのです。神の忍耐をそこから学ぶことができます。

 もう一つは、イエス・キリストがお語りくださった「毒麦の譬え話」からその理由を考える事ができます。
 マタイによる福音書13章に記された「毒麦の譬え話」によれば、神の国はよい麦の畑に、敵が毒麦を蒔いていったようなものです。良い麦と毒麦が混在しているのです。
 僕たちは直ちに毒麦を引き抜くようにと畑の主人に提案しますが、畑の主人はこう言ったのでした。
 「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」(マタイ13:29-30)
 収穫の時が来るまで、つまり最後の審判の時まで、神は良い麦の収穫のためにあえて毒麦をそのままにしていらっしゃるのです。

 どうかK・Nさんが聖書の言葉によって慰めを受けることができますように心からお祈りいたします。

コントローラ

Copyright (C) 2007 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.