タイトル: 神様と交わるとは? 千葉県 M・Aさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのM・Aさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生のさわやかな放送をいつも楽しく聞かせていただいております。
よく、神様と交わりを持ちましょうと聞きますが、具体的にはどのようにしたらよいのか教えていただきたいと思います。
お祈りを自分の方から話しかけたりするだけでなく、神様の語りかけを祈ったあとに聞くことも、黙想することも大切ですとうかがったことがあります。神様の肉声が聞こえるということではなくて、御言葉を思い出すということでも、同じこと、つまり交わっていることになるのでしょうか。
神様との日毎の交わりはどういうことなのでしょうか。
どうぞよろしくお願いします。これからも楽しみにしています。」
M・Aさん、お便りありがとうございました。確かに「神様と交わりを持ちましょう」という言葉、教会ではよく耳にする言葉です。分かったようで、でも、改めて考えてみると、具体的にはどうしたらよいのか迷ってしまいます。
そもそも「まじわり」という言葉自体、キリスト教会以外の日常的な会話の中ではあまり使わない表現かもしれません。ちなみに国語辞典で「まじわり」と言う言葉を引くと、第一の意味は「つきあい」や「交際」。第二の意味は「男女の性的な交わり」と出ています。第二の意味は別として、神様との交わりを「神様とのお付き合い」というのはちょっと変な気がしますし、「神様と交際する」というのもおかしな感じがします。聖書がいう「まじわり」、キリスト教会がいう「まじわり」とは一体どういうことなのでしょうか。ご一緒に考えてみましょう。
さて、教会でよく耳にする「交わり」という言葉ですが、ご質問にあったように「神様と交わりを持ちましょう」という表現に出会うことがよくあります。しかし、それ以上によく出会うのが使徒信条の中に出てくる「聖徒の交わり」と言う表現と、もう一つ、大抵の教会の礼拝の最後に行なわれる祝祷の言葉に出てくる「聖霊の交わり」という表現ではないかと思います。「聖徒の交わり」というのは今回のテーマからは少し外れますので、「聖霊の交わり」ということから見てみましょう。
日曜日の礼拝が終わる時に牧師はだいたい次のような言葉で祝祷をします。
「願わくは、主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、あなたがた一同の上に世々限りなく豊かにありますように」
この祝祷の言葉は、コリントの信徒への手紙二の13章13節に出てくる言葉をもとに様々なバリエーションを加えたものです。コリントの信徒への手紙二の13章13節は次のような簡単な言葉です。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」
そして、ここに「聖霊の交わり」という表現が出てくるのですが、「聖霊の交わり」という表現自体は、後にも先にも聖書の中ではここにしか出てこない珍しい表現です。礼拝ではいつも耳にしている言葉が、聖書の中では一度しか出てこないと言うのはちょっと不思議な気がします。
一回しか出てこない表現を最初に取り上げても、意味がないのではないかと思われるかもしれません。しかし、一つだけここには大きな示唆があるような気がします。普通「神様との交わりを持ちましょう」という場合、主体的に動くのは人間の側です。人間が動いて神様に働きかけて交わりを持つという構図です。しかし、祝祷の言葉は、あくまでも上からもたらされる恵みや愛や交わりがテーマです。人間が何かして聖霊の交わりを手に入れると言うのではなく。ひたすら上から与えられるものとして、「聖霊の交わり」が語られているのです。
「神様との交わりを持ちましょう」という表現そのものは間違ってはいませんが、その前に神が私たちと交わろうとしていらっしゃる、という大きな前提があり、神が上から交わりを与えてくださるという事実があるのだということを忘れてはならないと思います。
さて、言葉として「神との交わり」という表現自体も実は聖書の中にそんなに出てくるわけではありません。
旧約聖書ではヨブ記29章4節に「神との親しい交わりがわたしの家にあり わたしは繁栄の日々を送っていた。」とあるのともう一箇所、箴言3章32節に「主は曲がった者をいとい まっすぐな人と交わってくださる。」とあるぐらいです。ただ、箴言の方はわたしたちが神様と交わりを持つのではなく、神様が私たちと持つ交わりについて語っている箇所です。
新約聖書ではもう少したくさん出てきますが、特にヨハネの第一の手紙では「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1:3)と述べられ、「神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(1:6)と言われています。しかし「神との交わり」が何であるのか、それ以上詳しく述べられているわけではありません。
もっとも、今見てきたのは「神との交わり」という言葉そのものを見てきた結果です。言葉それ自体としては数え切れるほどしか出てこないのですが、神との交わりをイメージする表現は他にもたくさんあります。
例えば旧約時代の犠牲は神との交わりを象徴的に具現化したものです。とくに犠牲の中のあるものは、祭司だけではなく会衆もその犠牲の肉に与ることができるものがありました。また、イエス・キリストは宴会に人々を招く譬え話をしてくださいました。神との交わりの中に入れられると言うことは宴会にも譬えることができるものです。そしてそれは礼拝という行為によって具体化されるものです。神が交わりの中に私たちを招いてくださるということが常に先にあります。そして、その招きに応じてわたしたちが神を礼拝するということでその招きに対する応答がなされるのです。
神との交わりというのは、結局のところ、ご自分のもとへと招いてくださる神を礼拝することであると言ってもよいかと思います。それはただ単に日曜日の礼拝ということだけではありません。日々、個人的に献げている礼拝の行為そのものが神との交わりなのです。ですから、神との交わりを持ちましょうということは、言い換えれば公的にも私的にも神を礼拝しましょうと言うことに他ならないのです。
礼拝と言うのは神が聖書を通して語りかけてくださることに耳を傾けることと共に、この神に祈りと賛美をささげることです。それを日々の生活の中で繰り返すことが、神との交わりを持つ生き方なのです。
神の御言葉の説き明しである説教に耳を傾けたり、神の言葉である聖書を読むということは、もちろん、聞いたり読んだりしておしまいということはありません。御言葉を味わい、反芻し、自分の生活の中に適用するということも含まれます。
祈りもただ祈りっぱなしと言うことではありません。私たちの必要をご存知である神が、どのように私たちの必要を示し、満たしてくださるかを注意深く見守ることも含まれます。
神からの招きに応えて、そのような礼拝を公的にも私的にもささげることが、神との交わりを持つということなのです。
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