ご機嫌いかがですか。綱島教会の川杉安美です。
今週は月曜日から、イエス様がご自分のことを色々なものにたとえられたというお話をしてきました。「わたしは世の光である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは命のパンである」「わたしはまことのぶどうの木」、そういうことをみてきました。その、「わたしは何々である」という「何々」という部分をとってしまうと、「わたしは、である。」となります。
ちょっと日本語では変なので、「わたしはある」、そのように訳します。イエス様は、こういう言い方も何度もなさいました。「わたしはある」そういう者だと。これは、昔からユダヤの世界では、神様を表す言い方だったのです。つまり、イエス様は御自身のことを「わたしはある」とおっしゃって、神であると宣言されたわけです。
そして、そのことを色々な場面に応用すると、「わたしは世の光である」とか、「わたしは命のパンである」とか、そういう言い方にもなるわけです。神様ですから、色々な場面や状況に応じて、光でもあり、パンでもあり、命でもあり、羊飼いでもあり、という具合です。
イエス様は、そのようにあなたの色々な場面、状況、いろいろな必要に応じて、あなたの命になる、あなたの光になる、あなたのパンになる、あなたの羊飼いになる、そのようにおっしゃているのです。別の言い方をすると、あなたがいかなる状態、いかなる状況にあったとしても、神様であるイエス様がある、共にいる、そういうことになるのです。
ですから、キリストの弟子の一人のパウロにも言ったわけです。「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」。なぜなら、神様が共にいるのですから。あなたも、そうなるのです。