お元気ですか。ラジオ牧師の山下正雄です。
新約聖書ヤコブの手紙にこんな言葉があります。
「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(1:13-14)
この言葉が記されているちょっと前のところに、試練についての言葉が書かれています。「試練を耐え忍ぶ人は幸いだ」といわれています。
実は新約聖書が記されているギリシア語では「試練」も「誘惑」も同じ言葉が使われています。同じ言葉が「試練」と訳されたり「誘惑」と訳されたりしているのです。同じ事柄に直面していても、わたしたちがそれとどう向き合うかで、誘惑に陥る可能性もあれば、試練としてそれを乗り越えることで成長することもできるのです。いうまでもなく神がわたしたちを試練にあわせられるのは、わたしたちの成長を願ってのことです。しかし、試練を試練として受け止めず、しかも自分自身の欲望に注意を払わないでいると、誘惑に陥ってしまう危険があるのです。神は人を誘惑するようなお方ではありません。人が欲にかられて、試練であったものを誘惑の罠へと変えてしまうのです。
きょうのみ言葉・・・「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」
ヤコブの手紙1章12節