聖書を開こう 2006年7月6日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「神の恵みに満たされなければ」 マタイによる福音書 12章43節〜45節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教を毛嫌いする人たちの言い分で、しばしば耳にするのは、キリスト教というものは先入観に満ちていて、価値を押し付けてくる宗教だということです。これは一見もっともらしく聞こえるのですが、何の先入観も持たず、どんな価値観も持たないで、全く中立的な立場でものを考えたり、この人生を生きたりすることは、果たして可能なことなのでしょうか。
 そういうことを言う人に限って、先入観に満ちていたり、確固とした価値観を持っていることが多いのです。先入観を持つことがいいこととは言いませんが、価値観を持つことが決して悪いことではないとわたしは思います。むしろ、何も価値観を持たないことが、かえって逆にどんな価値観にも迎合してしまう人間を作り上げてしまうと思うのです。
 きょう取り上げる個所には、汚れた霊が出ていった人のことが取上げられます。汚れた霊が出ていったのですから、神の側にも悪霊の側にも立たない、まさしく、中立的な立場の人が出来上がったかのように見えます。果たして、そのような中立的な生き方を人はいつまでも続けることができるのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 12章43節から45節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 今、お読みした個所は、よほど注意して読まなければなりません。特に、このことが言われているのは、一体誰に対してどういう文脈の中でのことなのか、よくよく注意を払う必要があります。
 そもそも、今まで何回かに分けて学んできたことは、どれも、ファリサイ派の人々に対して向けられたものでした。彼らはイエスを殺そうとたくらみ、イエスのなしてきた救いの業を、ことごとく悪霊のかしらによって実現したものに過ぎないと主張した人たちでした。そういう一連のファリサイ派の人々の言動に対して、イエス・キリストがお語りになった言葉を、わたしたちは今まで取上げて学んで来ました。ですから、きょうのイエス・キリストの教えも、そうした文脈の中で先ず捉えなければなりません。

 そこで、先ず大切なことは、ここでイエス・キリストがおっしゃっている「汚れた霊が出て行く」といわれているその人が、誰のことをさしているのかという問題です。
 確かに、イエス・キリストは病気をお癒しになったり、汚れた霊を追い出されたりしました。弟子たちにもその同じ権威をお与えになって、お遣わしになりました。そうした宣教の活動を通して汚れた霊を追い出していただいた人々のことをここでとりあげているのでしょうか。そうではありません。
 ここでイエスが問題としている人たちは、ご自分の宣教に対して異議を唱えるファリサイ派や律法学者たちです。特にファリサイ派の人たちはモーセの律法を守ることに忠実で、一般民衆と自分たちを区別して意識していました。ファリサイ派の名前の由来がどこにあるのかということについては、学者の見解が一致してはいませんが、その一つの説明によれば、彼らは「分離されたものたち」というところからその名前が由来しているということです。なによりもモーセの律法を厳格に守ることでは、誰よりも熱心である点で、他の者たちとは分離された者なのです。清さという点でも、他の者たちからは分離された者という意識を強くもっていたのでしょう。

 確かに、新約聖書の中では、ファリサイ派はまるで偽善者のように扱われていますが、ユダヤ教の歴史からすれば、彼らの活躍によって、ユダヤ教の純粋性が保たれてきたといっても良いかも知れません。
 そうした彼らの良い意味での働きにもかかわらず、イエス・キリストは彼らに対して、「汚れた霊が出ていった人」の譬えをお語りになるのです。

 そこで、注意深く読まなければならないのは、イエスはここで、イエスの宣教活動によって汚れた霊を追い出していただいた人たちのことを語っているのではないということです。イエスによって悪霊を追い出していただいた人のことではなく、ただ、どういう理由であるかはわかりませんが、汚れた霊が出ていった人のことです。イエスの権威ある言葉によらずに、汚れた霊が自分から出ていったのですから、その悪霊は追い出されたというわけではありません。追い出されて、その後に神の恵みがその人を満たしたというわけでもないのです。
 これは、明らかにファリサイ派の人たちへの皮肉を込めた譬えです。確かに、彼らはモーセの律法を重んじ、民衆以上に清い生活を送っていたのかもしれません。けれども、イエス・キリストの目から見れば、それは、家を空っぽにしただけのことだったのです。しかも、それは汚れた霊からしてみれば、追い出されたのではなく、自分から出て行ったに過ぎないのですから、元いた場所は空家ではあっても、自分の家であることには変わりはないのです。ですから、その場所はいつまでたっても「わが家」と悪霊たちに呼ばれているのです。

 イエス・キリストによって汚れた霊を追い出していただくということは、それとは全く違うことです。イエス・キリストが汚れた霊を追い出されるときは、二度とその人のところへもどっていくことがないようにされるということです。そのように直接汚れた霊にお命じになるというばかりではなく、汚れた霊を追いだして、新しい命である聖霊を与えてくださるからです。聖霊がもたらす恵で満たしてくださるからです。
 ファリサイ派の人たちの生活は確かに人間的には清かったかもしれません。しかし、そこにまことの神の恵みと霊とで満たされないならば、結局はきれいになった空家にもとの汚れた霊が仲間を連れて返ってくるだけになってしまうのです。

 キリストによって救っていただくということは、悪霊も神も居ない中立的な心にしていただくということでは決してないのです。そんな真空状態の心には、イエスの譬えのとおり、再び汚れた霊に隙を与えるだけなのです。
 イエス・キリストは悪霊を追い出してくださるばかりか、その空になった心に神の霊を満たしてくださるおかたなのです。
 実にイエス・キリストには神の恵とまこととに富んでおられ、わたしたちを満たしてくださるお方なのです。

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