メッセージ: 「しるしを求める時代」マタイによる福音書 12章38節〜42節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
確かな証拠というのは、とても大切なことです。確かな証拠もないのに人を疑えば、相手に濡れ衣を着せることにもなりかねません。けれども、何もかも、あらゆることに確かな証拠を求めていけば、信頼関係が成り立たなくなるということもあります。例えば、友達であることの確かな証拠を見せて欲しい、などど相手から求められたとすれば、いったいどんな確かな証拠によって相手を満足させることができるのでしょうか。「わたしを信じて欲しい」としか言いようがないことでしょう。そもそも、相手がそんなことを求めて来るような友人関係であるとするならば、その友人関係は既に破綻しているのかもしれません。
さて、きょう学ぶ個所には、イエスに対してしるしを求めるユダヤ人のことが記されています。その求めに対して、イエス・キリストはどのようにお答えになったのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 12章38節から42節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
きょうの聖書の個所には律法学者やファリサイ派の人々が登場します。ファリサイ派の人々に関しては既に学んだように、イエスのなさった数々の奇跡を見て、それを悪霊のかしらベルゼブルによって実現した業であると言ってのけた人々でした。律法学者とはモーセの律法の専門家で、その中のある人々は同時にファリサイ派に属する律法学者でもありました。
さて、彼らはイエスに対して「先生、しるしを見せてください」と求めました。この場合の「しるし」とはイエスがメシアであるしるし、救い主であることの確かな証拠と理解してよいでしょう。彼らはイエスが悪霊の頭によって様々な不思議な業を行なっていると断定した人たちでした。もし、イエスがほんとうの救い主メシアであるならば、その確かな証拠を見せてほしいというのです。その場合の確かな証拠というのは、目に見えるような、触って確かめられるような、そういう確かな証拠のことを言っているのでしょう。
イエス・キリストは彼らの要求に対して、こうお答えになったのです。
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」
まず第一にイエス・キリストは彼らがよこしまで神に背いた時代に生きる者たちだとおっしゃいます。しるしを求めるとはそのような時代に生きる者たちのなすことであるとイエスはおっしゃいます。もちろん、イエス・キリストがおっしゃりたいことは、理性や分別を捨てて、ただひたすら信じるようにということではありません。神はイエス・キリストを通して数々の御業をなしてくださいました。そのことを通してだけでも、十分にイエスが神から遣わされた救い主であることを知ることができるはずです。しかし、彼らは、あえてそのよなイエス・キリストの御業や働きに目を閉じて、それを悪霊のわざと決め付けているのです。それは、彼らにそもそも信じるつもりはないと言ってもよいほどです。
番組の最初でも言いましたが、「友達だったら、その証拠を見せて欲しい」と言い出すような友達関係は、そもそも友達としての関係が破綻していると言えるでしょう。それと同じように、イエスに対して確かな証拠を見せて欲しいといっている彼らは、既にイエスに対する信頼を失っているのです。信じるつもりもないのに、しるしを示して欲しいと願う彼らの心の邪悪さは明らかです。だからこそ、イエスは彼らのことをよこしまで神に背いた時代の者たちだとおっしゃるのです。
そのような彼らに与えられるしるしはヨナのしるし以外にない、とイエス・キリストはおっしゃいます。
ここでいうヨナのしるしとは、旧約聖書ヨナ書に登場する預言者ヨナの逸話に基づいています。イエス・キリストはヨナが三日三晩大きな魚のお腹の中にいたように、ご自分も三日三晩、大地の中で過ごされるとおっしゃいます。このことは、やがてイエスに訪れる十字架での処刑と葬り、そして墓からの甦りのことをさしているのです。つまり、イエスの復活こそが最大のしるしとなるとイエス・キリストはおっしゃっているのです。復活こそイエスがまことの救い主であることのもっとも大きなしるしなのです。
けれども、イエス・キリストはやがておきる十字架と復活の時まで、しるしを待っていなさいと彼らに言っているのではありません。イエス・キリストはさらに言葉を続けて、頑なな彼らに対してこうおっしゃいます。
「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」
「また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」
ヨナの宣教の言葉を聞いて、神を畏れて悔い改めたニネベの人たちは、ユダヤ人ではない外国の国の人々でした。けれども彼らは預言者ヨナに対して証拠を求めたりはしませんでした。ただヨナが取り次いだ言葉を神の言葉と信じて受け容れた人たちなのです。
南の国の女王、シバの女王も外国の国の女王でした。しかし、遥々ソロモン王を訪ねてきて、その知恵に耳を傾けたのでした。
それに引き換え、律法学者やファリサイ派の人々は、いつも聖書に触れ、神のすぐ側にいながら、悔い改めることも信じることもしないのです。神の言葉をいただきながら、しかし、イエスを拒みつづけるその罪はどれほど大きなことでしょうか。
復活のイエス・キリストはおっしゃいました。「見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ20:29)
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