おはようございます。山下正雄です。
きょうはアドヴェントの第三の主の日です。昔、旧約聖書の民は約束された救い主キリストを待ち望みました。同じように、クリスマスを迎えるわたしたちも、もう一度初心に返ってキリストを迎える心の備えをしましょう。
さて、イエス・キリストが救い主の働きを開始される前に、洗礼者のヨハネという人が先駆者として神から遣わされました。この人はまるで旧約時代の預言者のような出で立ちで、民衆からも一目置かれていました。この人こそもしかしたら救い主ではないかと思われるほど、民衆の心を捉えた人物でした。
この洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりで宣べ伝えていたのは、まことの悔い改めでした。救い主をお迎えするには、ほんとうに自分が救いを必要としている自覚が必要だというのです。
他人の罪というのはすぐに気がつきやすいものです。そして、他人の罪にはとかく鋭い批判を向けがちです。ところが、それが自分の罪となると、なかなか気がつかないか、気がついてもすぐに言い訳ばかりしてしまうのが人間です。たとえ悪いことをしたとしても、それを仕方ないことだったことにしたり、やむをえないことにしてしまったり、あるいは他人や社会のせいにして終わってしまいます。酷いときには、自分の罪深さを棚上げにして、罪人だらけの世界から自分をお救いくださいとさえ思ったりもするものです。
洗礼者ヨハネは自分ところへ集まってきた民衆たちに厳しいことを言いました。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
ユダヤの人々には選民意識というものがありました。なるほど、旧約聖書を読めば、アブラハムの子孫であるイスラエル民族には神から選ばれた民であるという厳然たる事実がありました。しかし、これも聖書を読めばわかるとおり、神がイスラエルの民を選んだのは、決してイスラエル民族が他の民に勝って優秀であったからという理由ではなかったのです。他の民と同じように弱く、罪深く、時には神の御心を知りながらそれを果たさないこともあったのです。彼らが選民であったのは、ただ神の一方的な恵みによるしかなかったのです。
洗礼者ヨハネはそのイスラエル民族の人々に、自分がアブラハムの子孫であるという理由で、自動的に救われるなどと思うなと厳しく教えられます。一人ひとりに悔い改めにふさわしい実を結ぶことを求めたのです。
口先だけの悔い改めではありません。具体的な行動を伴った悔い改めを求めたのです。もちろん、その行いが救いをもたらすのではありません。ヨハネが求めたのは心からの罪の自覚です。その自覚が具体的な行動に反映されるほどの悔い改めです。さらには、その具体的な行動を通して、自分自身の罪深さをいっそう学ぶための行動です。
自分の足りなさを知ることは面白いことではありません。ときにはつらいとさえ感じることもあります。しかし、そうであればこそ、救い主を迎える喜びも大きいのです。