おはようございます。山下正雄です。
聖書には神の救いの歴史が描かれています。天地創造から始まり、人類の誕生と堕落、罪の支配が及ぶ悲惨な世界が描かれます。そして、何よりもそうした世界に救いをもたらそうとする神の大きな働きの歴史がそこには描かれているのです。神は一つの民族をお選びになって、その民族からやがて人類の救い主を生まれさせようと計画されたのです。旧約聖書にはそうした神の救いの歴史が力強く記されています。
新約聖書はというと、神の救いの最終章とでも言うべき内容です。旧約聖書で約束されていた救い主が実際にこの世にやってきて、救いの業を成し遂げる様子が描かれています。
こうして、旧約聖書も新約聖書も、どちらも気が遠くなるほどの神の救いの歴史を途絶えることなく書き綴っているのです。もっとも「途絶えることなく」とは言いましたが、旧約聖書の時代と新約時代の始まりであるイエス・キリストの時代との間には、書かれていない数百年があります。その間に挟まれた時代を中間時代と呼ぶ人もいます。中間時代には神は救いから手を引いておられたのかというとそうではありません。ただ、旧約聖書や新約聖書のように聖書として書物に書き記された歴史がないのです。その間にも神は着々と救いの御業を準備されていたのです。
旧約聖書から新約聖書へと読み進めるときに、この数百年の期間にわたるギャップがありますので、突如として現われた洗礼者ヨハネの活動がとても印象に残ります。
イエス時代のことを描いた文書の一つに、新約聖書のルカによる福音書と呼ばれる書物があります。その第3章は今年の待降節の第二の日曜日、つまり、きょうの日曜日の聖書箇所として多くの教会で朗読されることになっています。ルカ福音書は救い主であるイエス・キリストに先立って遣わされた洗礼者ヨハネの出現を注意深くこの世の歴史に位置付けて描いています。
「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(ルカ3:1-2)
およそ紀元30年より少し前のユダヤでの話です。沈黙を守っていたかに思えた神の言葉が、救い主の先駆者、ヨハネの上に降ったのです。そのヨハネの使命はただ一つでした。それは「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」することでした。そのためにヨハネは神からの言葉を受けて、民衆の前に立ったのです。
そのヨハネが述べ伝えたのは「悔い改めの洗礼」でした。来るべき救い主の道を備えるとは、具体的には民に心からの悔い改めを迫ることだったのです。
きょうは待降節・アドヴェントの第二の日曜日です。かつてのユダヤの民衆たちが救い主を迎えるために心からの悔い改めを迫られたように、クリスマスを迎える私たちも心からの悔い改めが求められているのです。救い主イエス・キリストは罪から人を救うためにやってこられました。けれども、罪の自覚のないところに救いの必要性を感じることはできません。救いの必要性を感じることができなければ、救い主の必要も実感することはできないのです。その点は昔の時代も今の時代も変わることはないのです。
荒野に響く洗礼者ヨハネの声は罪に眠る人々の心を呼び覚まし、救いの必要を自覚させたのです。クリスマスをよりよく迎えることができるために、わたしたちも罪の大きさを自覚しましょう。神に助けを求めて、罪を悔い改める心を持ちましょう。