おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書箴言の12章15節にこんな言葉があります。
「無知な者は自分の道を正しいと見なす。 知恵ある人は勧めに聞き従う。」
この言葉は、何のコメントも必要がないほど自明の真理と感じられることでしょう。見識が狭い人間ほど自分が正しいと思い込んでしまうのは、どこの国へ行っても見られることです。人の意見に耳を傾けない頑固者ほど、自分の無知さ加減をさらしてしまいます。物事というのは実に複雑です。一方から見れば丸く見えることも、方向を変えてみれば違って見えることはいくらでもあるのです。
例えば、真上から見れば丸なのに、真横から見ると三角形になるようは物体といえば、すぐに円錐を思い浮かべることができるのは大人です。しかし、円錐を知らない子どもには、丸だったり三角だったりするような、そんな奇妙なものはありえないとすぐに思い込んでしまいます。
物体の形ならば、そのものを見ればなるほどと納得行くこともあるでしょう。しかし、人生のこととなると中々イマジネーションが及ばないことが多いのです。そこで、昔からどこの国へ行っても、人生の先輩や賢い人の知恵に耳を傾けるべきことが言われているのです。そして、それこそが知恵ある者の生き方であるという人生訓が語り継がれているのです。
さて、そこまでは、時代を問わず、洋の東西を問わず誰もが受け容れることのできる知恵ある言葉だと思います。しかし、聖書はもっと深い意味で、わたしたちに知恵の言葉が語る勧めに耳を傾けるようにと勧めているのです。
そもそも、聖書にとっては神の言葉こそ知恵ある言葉なのです。人はこの神の言葉である聖書に耳を傾けないとすれば、どんな人間の知恵に耳を傾けたとしても無知だといわれてしまうのです。
「無知な者は自分の道を正しいと見なす。 知恵ある人は勧めに聞き従う」との言葉は、まさに神の言葉に耳を傾けようとしない人間にこそ向けられる言葉なのです。
人は人生の幸福やこの世の結末について、さも見てきたかのように語ります。もっともらしい哲学を次々と生み出します。そして、その自分が生み出した知恵に陶酔します。しかし、神の目から見るならば、それこそがもっとも無知な者の生き方なのです。聖書の教える知恵は、この世界をお造りになった神と深い関わりをもつものです。この箴言が教える知恵は、以前にもお話したとおり、「神を畏れることから始まる知恵」なのです。
初代教会の偉大な宣教者であったパウロは真の神を信じないこの世の生き方をこうのべています。
「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」
この無知に閉ざされた生き方からわたしたちを解放するためにイエス・キリストは来てくださったのです。イエス・キリストは神の言葉そのものであると聖書には記されています。このイエス・キリストの勧めに耳を傾ける時、わたしたちはあらゆる無知から解放されるのです。