おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書箴言10章22節にこんなことが書かれています。
「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」
豊かに生きたいと願う気持ちは誰もが持っています。もちろん、その豊かさとはただ精神的な豊かさというばかりではありません。着ること、食べること、住むことに事足り、さらに心にも余裕のある豊かさです。
そんな豊かな生活を願い求めながら、人間は文明や文化を栄えさせてきました。そういう人間の生き方を否定するつもりは少しもありません。人間にはいつもいい意味での向上心があります。それもまた神から与えられた素晴らしい心です。
ところが、せっかく神からいただいた豊かさを求める心も、また、それに向かって自分を高めていこうとする向上心も、時として、その方向がどこへ向かっているのか見失ってしまっているときがあります。聖書はそういう人間の危うさを指摘しています。いえ、罪深い人間の心には、思い思いの豊かさのイメージが勝手に作り上げられて、がむしゃらにそれを獲得しようと必死になるときがあるのです。
先ほどの箴言の言葉は、人間を豊かにするものは主の祝福であると教えています。これは人間のあらゆる努力は結局意味がないといっているのではありません。そうではなく、神から離れては人間のほんとうの豊かさはありえないということなのです。事実、何もかもが自由になるわけではない人間なのですから、限界をも知るべきなのです。神に委ねて待つしかないときもあるのです。また、神がわたしたちの思いをはるかに超えて豊かにわたしたちをあしらってくださるときもあるのです。そのすべてを神からの祝福と受け取めることができることがわたしたちには大切です。
イエス・キリストは「愚かな金持ち」についての譬え話を話してくださいました。ある金持ちがたまたま訪れた豊作で、たくさんの収穫を得ることができたというのです。この金持ちの男は、それが神によってもたらされた祝福であることをすっかり忘れて、まるで、自分の命までも長くなったかのような錯覚に陥ってしまったのです。そう、この男にとっては、このような祝福は自分の努力の結果と映ったのでしょう。少なくとも収穫物はすべて自分のもの、そしてそれを楽しむ自分もまた、誰のものでものない自分自身のものと思ってしまったのです。この豊かな収穫を与えてくださった神のことも忘れ、この収穫の豊かさを共に祝う隣人たちのことも忘れてしまったのです。そして、自分がこの豊かさを一人で楽しもうとしたときに、この金持ちはもっとも豊かさからは遠い存在となってしまったのです。
イエス・キリストはおっしゃいました。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」
人を豊かにするものは神の祝福である、ということをすっかり忘れるときに、人は自分が手にした豊かさの中にありながら、最も豊かさからは遠ざかってしまうのです。
イエス・キリストはさらに続けておっしゃいました。
「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」
神は鳥にまさって人を豊かに祝福してくださるのです。