おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書『箴言』の中にこんな言葉があります。
「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言1:7)。
何であれ物事を知っているということは偉大なことです。博学であることは尊ばれるべきことです。しかし、知恵があることはそれにもまして大切なことです。
ところで、知識と知恵は似ているようで違います。特に聖書の世界では、知識よりも知恵が重んじられています。聖書の世界では知恵は人間が生きることと深く関わりを持つ実際的な知識だからです。それは単なる実用主義ということではありません。人間が人間として生きていく上で必要な知識や洞察や能力をさしています。そしてなによりも、その知恵はまことの神と深く関わる知恵だからです。先ほどお読みした箴言の言葉は、知恵がいかに神との関わりが深いものであるかを語っています。まことの神を離れては、ほんとうの知恵というものはありえないのです。それが聖書の教えです。
この現代を生きる人々にとっては、信仰を持つということは、無知の世界の虜になることだと思われがちです。科学的で学問的な知識こそが人間をあらゆる無知から解放し、人間を幸せにしてくれるものと思いがちです。けれども、知識というのは決して中立的な立場で人を幸せにしてくれるものではありません。手に入れた知識をどう使うのかは、結局その人の人生観や世界観が、深い影響を与えてくるのです。知識が人を幸せにするのではなく、その知識を自分の幸せのためにどう使うかという問題なのです。最先端の技術もただ自分の野望を遂げる道具にもなれば、人をほんとうに生かす助けにもなるのです。そこには確かな人生観や世界観がなければ、知識すら正しく使い切れないのです。
そこで、先ほどお読みした聖書の言葉が関係してくるのです。もし、人に神を畏れる思いが一片もなくなってしまえば、最先端の知識は返って人を苦しめる結果にもなるのです。おおよそ知恵ある生き方などできなくなってしまうのです。
知恵ある生き方には、得た知識を実際の生活の中でコントロールできるだけの哲学が必要なのです。ちょっと大袈裟な言い方かもしれませんが、そういう哲学が必要なのです。そして、聖書はその哲学こそ、神を畏れることから始まる人生観や世界観だと言っているのです。
ちょっと話が抽象的過ぎますが、具体的にはこういうことです。
たとえば、科学的な知識によって人は病気の早期発見ができるようになりました。時には生まれてくる前の胎児が持っている様々なトラブルさえも簡単に見つけられるようになりました。しかし、病気やトラブルを早く発見できる技術はあっても、それを克服できるだけの知識や技術がないということもあります。やがてはそうしたことに対する治療の方法も発見されることでしょう。しかし、その時がくるまで、そうした技術や知識をどう使うのか、そこには知恵が必要なのです。知ってしまった以上、どうするのかを決断しなければならない場面も出てくるでしょう。知ってしまったために不安に耐え切れない人も出てくるでしょう。また絶望的になって、さらに不幸な決断をしてしまう人も出てくることでしょう。
わたしは、最先端の知識や技術に反対しているのではありません。そうではなく、それらが本当に人間に幸福をもたらすことができるようにと、人間が知恵ある生き方をすることができるようにと願っているのです。そして、聖書によれば、知恵ある生活の初めはまことの神への畏れからはじまるのです。