私達は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。つまり、私達が天国に行くためには、救われるためには、何をどうすればいいのでしょうか。こういう問題は、一昔前までは、およそ、人生も終盤戦に入って、そろそろお迎えを待たなければいけなくなってから、その時に考えればよいでしょう、という意見が大半でした。しかし、私達を取り巻く環境は目まぐるしく変化しています。ついこの前買った電化製品が、もう古いタイプの物になり、新しい機能付の物が店頭に並ぶ時代に生きています。私達は時代のバスに乗り遅れまいとして、昼夜を問わず、色々な方面に情報のアンテナを張り巡らして生きています。現代はまさに情報の宝庫であり、それに伴って、目当ての物、欲しい物がすぐに簡単に手に入るようになりました。
しかし、それと同じようにして、永遠の命、すなわち、天国への片道切符を、私達は手に入れることができるのでしょうか。
聖書に出てくる、ある青年もこのことについて悩んでいました。彼は、若くして議員であり、大変な金持ちであり、子どもの時から品行方正に育てられ、申し分のない立派な、人の羨むような人物でした。さらに彼は、律法、すなわち神の言を幼少の頃から完璧に守ってきた、という自負心を持ち合わせていました。
それでも彼は、何か物足りないものを感じていました。持っている莫大な財産も、人々からの尊敬と称賛も、自分の救いということに関しては、何の保障にもならないことに気づいたのです。そこで彼は、イエス・キリストのもとに来て、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。この問いそのものの中に、彼の問題が現れています。彼は、何か特別なことをすることによって永遠の命を得ることができると思い込んでいました。しかし、人が救われるのは、永遠の命を得ることができるのは、善い行いとか、聖書の教えを一字一句、完全に守り行うことによってではありません。イエス・キリストの答は、彼の期待していたものとは全く異なったものでした。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
この青年は、イエス・キリストに従って行けないほど、この世の富、財産に信頼をおいていたのです。そこでイエスは、神よりも第一にしているもの、神への信仰への妨げになっているものを捨てなさい、と言われたのです。人が救われるのは、ただイエス・キリストに対する信仰のみによります。ですから、私達は、全ての物にまさって、永遠の命を第一と考え、イエスに従っていくことを第一としなければ救いを得ることはできません。
私達は、どうしてもこの地上のものを頼りとし、しがみつこうとしています。それはある人にとっては学歴であったり、社会的な地位や名誉であったり、財産であったりします。いずれにしても、これらによっては、永遠の命を手に入れることはできないのです。
私達が救われるのは、善い行いによるのではありません。一方的な神の恵みと憐れみによるのです。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(聖書ローマの信徒への手紙10章9節にある御言です。