私達にとって、愛する者との地上での別れ、つまり「死」ほど辛く、悲しいものはありません。愛する者との関わりが深ければ深いほど悲しみはとどまるところを知りません。
私達人間にとって一番恐ろしいもの、人類最大の敵は「死」です。人は誰しもこの死を避けることはできません。死は、私達人間の先祖アダムが神に背いたことの罪の報酬として人類にもたらされたものです。人間は死という現実を前にしてどうすることもできません。「死」は私たちと愛する者とを完全に遮断し、それから先は私達の力の及ばないものです。
しかし、ただ一人だけ、死んで墓に葬られて復活された方がおられます。その方は、神の御子イエス・キリストです。イエス・キリストは、人間として本来、私達が神から受けなければいけない、神に背いたことの刑罰を身代わりとして受けてくださり、呪われた十字架の上にて死を遂げられました。ですが、イエス・キリストは三日目に死人の中より復活されたのです。このことは、イエス・キリストが死の力に打ち勝たれて、陰府の力、死の力を滅ぼされたことを証ししているのです。イエス・キリストは、復活された後、すぐにイエスの墓にやって来た婦人たちにその姿をお示しになられました。そして、婦人たちによって、イエス・キリストが復活されたという大きな喜びは、弟子たちに知らされました。ですが、弟子たちは、すぐにはその事実が信じられずに、疑う者もいました。
イエスの弟子の一人でディドモと呼ばれるトマスは、すでに復活されたイエス・キリストにお目にかかった他の弟子たちの「わたしたちは見た」という言葉を素直に信じることができないで、ますます心をかたくなに閉ざして、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。私達もトマスの類にもれず、頑固で懐疑的な性格の持主かもしれません。
しかし、イエス・キリストは、このようなトマスのために後日、再びご自分を弟子たちに現わされました。そして、かつてのトマスの愚痴をあたかも側で聞いておられたかのように、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じないものではなく、信じる者になりなさい。」と諭されました。このイエスの言葉によってトマスは、信仰の目が開かれて、イエスが復活された事実を確認し、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。さらにイエスは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われました。この言葉は、まさに、肉眼では復活されたイエス・キリストを見ることができない、今を生きる私達に対するものです。私達は、今、実際にこの目でイエス・キリストを見ることはできませんが、かつて復活されたイエス・キリストを見た人たちの証言である聖書を通して、イエス・キリストは確かに死人の中より復活されたのだ、ということを知ることができます。さらに、イエスの復活を信じる人たちとの交わりの中に、イエス・キリストは今も生きて働いて、信じる者たちと共に歩んで下さることが理解できるようにして下さっています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」