私たちは、誰でもが、幸福な安定した老後を過したいと願っています。長年に亘って勤めてきた会社を定年で退職して、さあ、これから新しい第二の人生をのんびりと優雅に過ごそうと思っておられる方もいらっしゃるでしょう。そのときに、私達が安定した何不自由のない老後を送るための保障を何に求めるでしょうか。利回りの良い貯蓄、債券、信託に求めるでしょうか。いずれにしても、この地上にあって「物質的な考え」が十分であれば、それだけで老後の生活が半分保障されたかのような錯覚に陥ります。しかも、自分自身の平均余命に合わせて蓄えが出来れば、万全の備えが出来たかのように思い込んでしまいます。
しかし、私達の老後は、財産や蓄えによって保障されるでしょうか。イエス・キリストは、それが間違っていることを一つのたとえ話で語っています。
ある金持ちの畑が豊作でした。ですが、作物をしまっておく場所がなかったので、今までの倉を壊して、さらに大きい倉を建てて、そこに将来に備えてたくさんの穀物や財産をしまい込んで「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができた。さあ、食べたり飲んだりして楽しめ」と考えていました。すると神は、この金持ちに、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」と言われました。
このたとえの金持ちのように、私達人間の命は財産では保証できません。いくら有り余る程の豊かな持ち物を蓄えていても、それがその人の命の長さを保障するのではありません。私達は、いつどこで、予期しないことで死を迎えなければならないか、わからないからです。私自身の祖父は、かつて私鉄の保線係をしていました。普段と同じように家族に「行って来ます」と挨拶をして職場に向かいましたが、それが最後の言葉となりました。数時間後に、線路を点検中に事故に遭い、数日後あっけなく世を去りました。37歳でした。死は病気だけでなく、災害や事故など、思いがけなく突然襲ってくる可能性があるのです。
イエス・キリストは、「人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われました。これは、「人の命は財産からは出て来ない」ということです。私達は、様々な老後の保障や蓄えがあると、それに比例して自分自身の命、寿命も長くなるかのような錯覚に陥ります。この金持ちの間違いは、まず、自分の命は自分の所有物であって、自分自身の意思で自由に支配できるかのように思い込んでいることです。さらにこの人には、万物を創り支配しておられる神、私達をこの地上に生まれさせ、命を与え、生かして下さっている神に対する思いがありません。私達は、たとえ自分の命といえども、思い通りにすることはできないのです。この金持ちのように「今夜、取り上げられる」かもしれません。私達の財産どころか、私達の命も魂も、本来の所有者は神です。私達は、一時この地上にあって神から命を預かって生かされているのです。この金持ちは、命の主である神を無視して財産が命を決めると思ったところが大きな問題でした。私達は、まず、神に心を向ける、神の前に富むことによって、日一日を神に委ねて、神によって生かされていることを確信することができるのです。