キリストへの時間 2006年2月12日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

宮武輝彦(芸陽教会牧師)

宮武輝彦(芸陽教会牧師)

メッセージ: 「キリストの叫び声を知る」

 お早うございます。安芸にあります芸陽教会の宮武輝彦です。今朝もあなたとご一緒に聖書のみ言葉に耳を傾けていきましょう。

 さて、イエス・キリストが十字架にかけられるとき、キリストは十字架の上で、大声で叫ばれました。その声は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫び声でした。この言葉の意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というものです。しかし、この声を聞いた人々の中には、この「エリ、エリ、」という呼びかけを昔の預言者エリヤの名と聞き違えて、「この人はエリヤを呼んでいる」という人もいました。――実は、イエス・キリストは十字架上で、苦しみの叫び声をあげられたばかりでなく、そのご生涯の間、絶えず、人々の罪を悲しまれ、とりなしの祈りをささげつつ、歩まれたのです。

 ある時、ファリサイ派という人々に神さまのことを教える立場にある人々がキリストのところに来たときのことです。この人々は、天からのしるしを求めて、キリストと議論しようとしました。この時も、イエス・キリストは心の中で深く嘆いて言われました。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」(マルコ8:12)と。このとき、イエス・キリストは、このファリサイ派の人々をそのままにして、舟にのってガリラヤの湖を渡っていかれたのでした。この人々は、キリストをあるがままに受け入れることをしないで、この人が世の人々を救うほんとうの救い主であることの目に見える証拠を求めたのでした。――わたしたちも、イエス・キリストを知ろうとするときに、その内面に注意をよせることはとても大事なことです。

 キリストは四千人や、五千人の人々を、わずかのパンや魚をもって養われることをされました。また、多くの病人をいやされました。それは、ただ、神さまのみ業によることで、そのひとつひとつが、キリストがほんとうに力ある御方であることの証でした。しかし、この証をファリサイ派の人々だけでなく、弟子たちも、本当の意味で、理解することができなかったのです。そればかりでなく、イエス・キリストが敵の手にとらえられてしまうと、弟子たちですら、イエス・キリストのもとから逃げ去ってしまったのです。

 わたしたちは、人間同志でもその内心を測りかねて誤解することがありますが、イエス・キリストの内心の嘆きと叫びほど、まわりの人間から理解されないものはありませんでした。キリストの十字架の死に至るまでのご生涯の嘆き、そして、十字架上の叫び声は、実に、世の罪をただ独り担われたためのものでした。天の父は、その愛する独り子に、世の罪を負わせることによって、ただひとつの罪のゆるしのいけにえをされたのです。ここに、はかり知ることのできない神の知恵があります。新約聖書のコリントの信徒への手紙一1章21節には「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」とあります。ただ、キリストの十字架上の叫び声を、あるがままに、わたしの罪のために身代わりに苦しんでくださった、と知るとき、その人はキリストの思いを知って、神に近づくのです。「キリストは、・・十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」(ペトロの手紙一2章24節)

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