お早うございます。安芸にあります芸陽教会の宮武輝彦です。今朝も、あなたとご一緒に聖書のみ言葉に耳を傾けていきましょう。
昔、イスラエルの指導者として立てられたモーセという人がいました。この人が、神さまからお召しを受けるときこのようなことが起こりました。モーセは羊の群れを飼っていて、ある時、その群れを荒れ野の奥へ追っていき、神の山ホレブに来ました。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主のみつかいが現れたのです。不思議なことに、柴の火は燃えているのに、柴は燃え尽きないままでした。モーセは言いました。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」――この時、主なる神さまは、モーセが道をそれて柴を見るのをご覧になり、柴の間からモーセに声をかけられました。「モーセよ、モーセよ」
モーセが「はい」と答えると、神さまは言われました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから・・」と。モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆ったのでした。
聖書の箴言には、主をおそれることは知恵の初め、という言葉があります。人が生きようとするときに、まず、心に覚えることは、モーセが神さまの言葉を聞き、その不思議なわざを見て、顔を覆ったように、まことの神さまに対してきよい心をもつことです。
イエス・キリストも人々に教えてこう言われました。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と。
それでは、わたしたちはどのようにすれば、心をきよくされて、きよいおそれの心を抱いて、モーセのように神を見ることができるのでしょうか。それは、わたしたちが、あるがままに、み言葉を受けることによってです。聖書の詩篇119編169節には、「主よ、わたしの叫びがみ前に届きますように。み言葉をあるがままに理解させてください。」という祈りの言葉が語られています。わたしたちにとって、神さまは遠く、また、そばに一緒におられるとは感じられないような時にも、その心の叫びを、そのまま、神さまに訴えるとき、わたしたちの心は神さまに対してへりくだることができるのです。また、新約聖書のフィリピの信徒への手紙4章5節にも、「主がすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りを願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」と教えられています。わたしたちは、物事が順調にはこんでいるときには、神さまのことを思うことが少なく、また、苦しみ悩むときでさえ、神さまに叫ぶことのできないものです。しかし、聖書の言葉は、イエス・キリストがわたしたちの住む世の中に来てくださったことを証しつつ、そのキリストのへりくだりを知って、神さまのわたしたちにそばにおられることを知るように勧めるのです。新約聖書ヨハネによる福音書1章18節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
今、ただ、聖書の言葉によって、このほんとうの神を示され、イエス・キリストを知るとき、モーセがきよい恐れの心を抱いたように、わたしたちの心をきよめられます。「こころのきよい人々は、幸いです。」とのみ言葉に、日々、聞き従っていきましょう。