タイトル: なぜクリスマスを祝うのですか? 匿名さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名の方からのメールです。お便りをご紹介します。
「クリスマスはイエス・キリストの誕生日ではありません。誕生日を祝う習慣は異教に由来します」
携帯からの短いメールですが、多くのことを言外に含んだメールありがとうございました。ご質問という形でも何でもありませんが、丁度この時期にふさわしい内容と思いましたので、あえて取上げさせていただきました。
さて、メールの文面から推測しますと、既存のキリスト教会の習慣を批判したいのではないかと感じました。他にもたくさんいただいているメールもそのような雰囲気をもっていますので、この推測はあながち外れてはいないものと思います。
いただいたメールは二つの文から成り立っていますが、まず、二つの文のうち最初のものから取上げたいと思います。それは「クリスマスはイエス・キリストの誕生日ではありません」というものです。
この場合、おっしゃりたいことは12月25日が歴史的にイエスが生まれた日ではないと言うことなのでしょう。もちろん、イエス・キリストの降誕にかかわる関心は、比較的古い時代からキリスト教会の関心でした。確かにパウロの書簡やマルコ福音書にはいわゆるキリストの降誕についての記述はありません。むしろ十字架と復活についてこそ紙面の大半を占める関心事です。しかし、同じ福音書でもマルコ以外の福音書ではイエス・キリストの働きを描く時に、その生涯の最初に立ち戻って記しています。少なくともこれらの福音書にとっては、イエスの誕生は関心事であったということはいえるでしょう。しかし、誕生の経緯や事実についての関心はあっても、誕生日そのものについてほとんど関心がないといってもよいかもしれません。実際、キリストがいつ生まれたのかという日付に関する議論は、もっと後の時代になってから出てきたものです。少なくとも4世紀ごろのキリスト教会には12月25日をキリストの誕生日とする伝統の他に、1月6日をキリストの誕生日とする伝統がありました。単に個人的な見解と言うだけならば、3月28日、4月29日、5月20日など、いろいろな見解があったようです。もちろん、これらすべては歴史的な資料に基づいたものというよりは、神学的な思弁によるものです。もちろん、それらは教会の中で特別な神学的な意味を持ったものとして受け容れられていたわけではありません。あくまでも、個人の興味から導き出されたものに過ぎません。
では、聖書自身がキリストの誕生日に関して何かの手がかりを与えているかというと、残念ながらほとんどまったくと言ってよいほど何の手がかりも与えてはいません。唯一挙げられるのは、ルカ福音書2章に記された羊飼いが野宿をしている場面です。この羊飼いが野宿できる季節から推測して、少なくともキリストの降誕は冬の季節ではなかっただろうというのが学者たちの大多数の見解です。ただ、冬以外の季節と言っても、それ以上の具体的な日付となると、どの日でもありえるという状態です。
そういう意味では、いただいたメールの指摘は全くそのとおりのことです。12月25日が歴史的にイエス・キリストがお生まれになった日ではないということは、今となってはキリスト教会の中でさえ良く知られている事実です。
さて、いただいたメールのもう一つの文について見てみましょう。「誕生日を祝う習慣は異教に由来します」という文です。
これは「キリストの誕生日を12月25日に祝うのは異教の習慣だ」と言う意味なのか、そもそも「誕生日というものを祝うのは異教の習慣だ」という意味なのか、どちらにもとれます。もし「誕生日というものを祝うのは異教の習慣だ」ということをおっしゃりたいのだとすれば、実は、3世紀初頭にアレクサンドリアで活躍したオリゲネスというキリスト教の神学者が既にそのことを指摘しています。実際聖書の中では異教徒であるエジプトの王ファラオと領主ヘロデだけが自分の誕生日を祝っているのです。つまり、聖書には自分の誕生を祝う習慣はないというものです。
それと先ほども触れたように、聖書の関心はまず、キリストの十字架と復活にありました。その後にキリストを信じて生きた人々に関しても、殉教の死は覚えられることがあっても、その人の誕生日がいつであるかと言うことはほとんど関心にものぼりませんでした。
けれども、やはり、同じように先ほど触れたとおり、キリストの誕生にかかわる関心は既に聖書の中にあると言うことも事実です。十字架と復活は神の救済の出来事の中で特筆すべき事柄でした。しかし、それと同じようにキリストの受肉と降誕も神の救済の出来事として早い時代から関心を集めていたのです。
ところで、キリストがこの世に現われたのは受肉の時、つまり降誕の時であるというのは正統的なキリスト教会では常識的な教理として受け容れられています。しかし、後に異端として退けられた教えの中には、イエスの受洗の時をもってキリストが世に現われたとする立場がありました。つまり、イエスが洗礼を受けられた時に聞こえた天からの声…「これは私の愛する子」という宣言をもってキリストがこの世に現われたと考えたのです。ですから、クリスマスを巡る問題には、キリストがいつ顕現されたのかという神学的な問題も含まれているのです。言い換えれば、クリスマスを祝うと言うことは、キリストが世に現われた日をどの時点とするかと言う神学的な問題も含まれているのです。
そういう意味で、初期の教会にとってクリスマスを巡る論争と言うのは単なる歴史的な日付をめぐる問題ではなかったのです。
もちろん、今となってもクリスマスを祝う意義に変わりはありません。キリスト教会にとって12月25日は歴史的なイエスの誕生日として祝われているわけではないのです。また、その日を異教の習慣に従って誕生日として祝っているわけでもありません。マタイ福音書やルカ福音書の記者がイエスの降誕を神の救済的な出来事としてその意義を描いたように、神の救済の出来事という関心から、その特別な日を神に感謝し、神を礼拝しているのです。
もちろん、クリスマスに付随して世俗の習慣が広まっているという事実は憂慮すべきことだと思います。ただし、クリスマスに関して禁欲的になったり無関心であることが、聖書が望む教会のあり方なのかどうかは、大いに検討の余地があるように思われます。キリスト教会の歴史が物語っているように、キリスト教会はキリストの誕生の歴史的な日付がわからないことを理由に、キリストの受肉と言う救済的な出来事を覚えないことを正しいとはしなかったのです。同様に、誕生日を祝う習慣が異教的なものであることを理由に、受肉と言う救済的な出来事を覚える日を設けないということもしなかったのです。そうすることはキリスト教会の間違った選択だったのでしょうか。それは決してそうではないでしょう。
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