BOX190 2006年12月6日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: カルヴィン主義の五特質について 東京都 Y・Aさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのY・Aさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生。はじめまして。こちらの放送は改革派教会の提供と言うことで、質問させていただきます。
 以前何かで聞いた話なのですが、改革派教会ではカルヴィン主義の五つのポイントを主張しているということでした。
 聞きかじりの耳学問で申し訳ないのですが、その五つのポイントと言うのは一体なんでしょうか。それは宗教改革者のジャン・カルヴァンが提唱した教えなのでしょうか。以上二つの点について教えてください。」

 Y・Aさん、ご質問ありがとうございました。Y・Aさんはどこでカルヴィン主義の五つのポイントについてお聞きになったのでしょうか。とても興味を覚えました。というのも、最近この言葉をあまり耳にしなくなったからです。
 わたし自身のことを言わせていただくと、この「カルヴィン主義の五特質」という言葉に初めて接したのは、高校生の時でした。そのころ、やっと教会に行き始めたばかりで、洗礼もまだ受けていなかった時代のことです。夏に同じ教派に属する地区の高校生たちが集まるキャンプがありました。そのキャンプの中で、初めて「カルヴィン主義の五特質」という言葉に触れたのです。「そういう教えがあるので、是非、教会に帰ったら自分の教会の牧師先生に質問してみなさい」といわれて、さっそく教会に帰ってから牧師先生に質問したのを覚えています。
 もちろん、そのとき私の教会の牧師先生は丁寧に教えてくださいましたが、「洗礼も受けていない高校生にそんな質問をさせるとは…」と言って、私の教会の牧師先生は随分不満げでした。わたしとしてはとても整理のできた解説をしていただいたので、満足だったのですが、あの時の牧師先生が心配した気持ちは今になって分かるような気がします。Y・Aさんがどんな関心からこのご質問をされているのか分かりませんが、信仰の躓きとならないことを願います。

 さて、二つご質問があったうちの答えやすい方から答えていきたいと思います。
 「カルヴィン主義の五特質」というからには宗教改革者のカルヴァンがそれを提唱したのだろうと思われがちです。しかし、カルヴァンの著作の中にカルヴィン主義の五特質と言う言葉は出てきません。また、カルヴィン主義の五特質に直接繋がる論理がカルヴァンの著作の中にあるわけでもありません。ただ、カルヴァンの聖書理解を押し進めていけば必ず到達する結論であるということは間違いありません。
 そもそも、カルヴィン主義の五特質と言う理論が出てきたのは、17世紀のオランダで起ったアルミニウス論争がきっかけでした。アルミニウスという神学者はカルヴィン主義に反対する立場の学者でした。この論争自体はドルトレヒトで開かれた会議によって最終的な決着がつきました。そのとき制定されたドルト信仰規準の中にカルヴィン主義の五特質が鮮明に現われています。実はカルヴィン主義の五特質はアルミニウス主義の裏返しと言っても良いくらいです。

 さて、もう一つのご質問ですが、カルヴィン主義の五特質の五つのポイントとは、全的堕落、無条件的選び、限定的贖罪、不可抗的恩寵、そして聖徒の堅忍の五つをいいます。ちょっと耳で聞いただけでは分かりにくいかも知れません。一つ一つを簡単に説明するとこういうことです。

 まず、一番目のポイントは「全的堕落」です。全的無能力とも言われています。「全的」というのは「トータルに」という意味です。「トータルに」というのは「部分的に」と言う言葉に対して言われているのです。つまり、人間はアダムとエバの堕落以来、生まれてくる子孫はみな罪の影響をこうむっていて、トータルに堕落していると言うことなのです。
 なぜ、こんなことを言うのかと言うと、果たして人間は自力で律法を守って罪から救われることができるのかどうか、と言うことと関係しているからです。全部自分で果たせないとしても、堕落していない部分がわずかでも残っていれば、神と部分的にでも協力して救われる可能性が出てくるわけです。
 しかし、カルヴィン主義はそういう教えに対して、人間は全く堕落していて、自分で自分を救う能力すらないと聖書が教えていると信じているのです。

 二番目の「無条件的選び」というのは一番目の「全的堕落」の論理的な結論であるともいえます。もし、人間のうちに自分を救うほどの力が残っていないとすれば、そして、なおかつ聖書が人間の救いを約束し、ある人を救いに選んでいるとすれば、それは無条件の選びでなければありえないと言うことなのです。そもそも全く堕落した人間は救いの条件を満たすことはできないのですから、救われるとすれば、神の無条件的な選び以外に説明がつかないのです。

 三つ目の「制限的贖罪」というのは、キリストの十字架の贖いはすべての人のためか、それとも二番目で取上げた無条件的選びによって選ばれた者だけのためにあるのか、という議論です。これは一番目と二番目のポイントから考えていけば、当然に制限的贖罪という結論になります。逆に条件的な選びを主張すれば、キリストの十字架の効力は無制限でなければならなくなるのは当然です。

 四番目は「不可抗的恩寵」です。これが言おうとしていることは、神の恵みは拒否できるかどうかという問題です。つまり、無条件の選びで選ばれた人が、自分の意思で救われることを拒むことができるのかどうかという問題です。一から三までのポイントを受け容れるとすれば、当然、神の恵みには抵抗することができないという結論になるはずです。もっとも、言葉としては「不可抗的」というのはあまり良いイメージではないかも知れません。まるで嫌々ながら救われるようなイメージを持ってしまうかもしれません。しかし、ここで言おうとしていることは、嫌々ながら無理やり信仰に入れられる人がいると言うことではなく、信じる時には、もちろん心から信じてキリストの救いを受け容れるのです。

 最後の五番目は「聖徒の堅忍」ですが、一度救いに入れられた者は、そこから決して堕落することはなく最後まで救いの恵みに留まるという教えです。つまり、カルヴィン主義の聖書解釈では人間の救いというのは、まったく神の主権に属する事柄なのですから、神が救いを計画し、神が責任を持って救いを実行してくださると考えているのです。もちろん、クリスチャンであっても弱さから罪を犯すことはあります。信仰のスランプも経験するでしょう。しかし、神はそれを理由に人を再び救いから外へ放り出すのではありません。むしろ、罪から名実共に清め、力を与えてくださり、確実に救いに至るように助けてくださるのです。それが聖徒の堅忍なのです。

 つまり、カルヴィン主義の五特質が言おうとしていることは、人間の努力や条件の中に救いの希望があるのではなく、神の無条件的な選びにこそ希望があると言うことなのです。人間の救いが無条件的な選びに掛かっているというのは、一見理不尽のように思えます。しかし、無条件的な選びであるからこそ、確実なのです。

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