タイトル: いつもホントのことを言わないといけないのですか? 神奈川県 ハンドルネーム・桃香さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのハンドルネーム桃香さん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、きょうは番組で取上げて欲しい質問があり、メールしました。それは『嘘』についての質問です。日本ではよく『嘘も方便』と言われ、必ずしも嘘をつくことのすべてがいけないとは考えられていません。時と場合によって、上手に嘘をつくことが認められているように思います。同じようなことはキリスト教の倫理でもあるのでしょうか。
もちろん、嘘は基本的にはいけないことだということは分かっています。嘘は人間同士の信頼関係を破壊してしまうからです。けれども、人間関係の信頼ということを考えると、いつも知っている真実をすべて話すことがよいともいえない場合もあるような気がします。
例えば、Aさんから内緒にして欲しいと秘密を打ち明けられたとします。そして、たまたま他の第三者のBさんがその秘密をさぐりにきて、『Aさんのこれこれの秘密はほんとうなの?』って尋ねられたとしたら、知っている真実を正直に言うべきなのでしょうか。『さぁ。知らない』と答えてはいけないのでしょうか。
あるいは、Aさん、Bさんとわたしの三人でCさんについての話をしていたとします。それでAさんはCさんの服装のセンスが悪いとさんざんけなしたとします。そして、Bさんとわたしに『そう思うでしょ?』と同意を求めてきた場合、わたしもAさんの考えと同じようにCさんの服装のセンスが悪いと思っていたならば、そのとおり正直に言うべきでしょうか。そういう場合、私は正直に答えたくないと思います。それでも、質問には正直に答えるべきなのでしょうか。
キリスト教ではどう考えているのか、ぜひ教えてください。よろしくお願いします。」
桃香さん、メールありがとうございました。嘘についてのご質問ですが、様々なケースを考えると「嘘も方便」という言葉に逃げたくなるようなケースもたくさんあるだろうと思います。しかし、桃香さんご自身がおっしゃっているように、嘘や偽りは聖書が禁じていることです。モーセの十戒の第九戒は「隣人について偽証してはならない」ことを求めていますし、パウロもエフェソの信徒への手紙の4章25節で「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と勧めています。ですから、真実を重んじ、偽りを避けることは聖書の倫理が求めている大前提であることは否定することはできません。
ただ、ここで注意をしなければいけないことは、桃香さんが問題としている「嘘をつく」とはどういうことなのか、また、「真実を語る」とはどういうことなのか、そのことを検討してみる必要があるということです。
一般に倫理や道徳が問題にしている嘘というのは、本人が正しいと思っていることととは違うことをあえて正しいことのように言うことです。注意をしなければならないことは客観的な事実とは違うことがすべて嘘というわけではないということです。
例えば細心の注意を払って診察をし、下した診断結果が事実と異なる診断だった場合、それは結果として誤診ですが、倫理的に嘘をついたとはいえません。確かに、このような場合、一般的には「この医者は嘘つきだ」と言われるかもしれません。しかし、この医者は自分の最善を尽くして知りえたことを正直に述べているのですから、その下した診断は事実とは違っていても、自分自身の確信と発言には食い違いがないのですから嘘をついたとはいえないのです。
もちろん、診察に重大な落ち度があれば、その責任は免れることができないことは言うまでもありません。
あるいは逆に、結果が事実と合致していれば真実を語ったということにもならない場合もあります。例えば嫌がらせにわざと嘘の道を教えたのに、結果としてそれが正しい道だったとします。そのことはたまたまの結果であって、その発言は主観的に正しくないことを故意に言ったわけですから倫理的には嘘をついたことになるのです。
つまり、倫理や道徳で問題になる嘘というのは、その人自身が虚偽や間違いであることを認識していながら、あえてそのことがらを真実として表明することが嘘なのです。従って嘘をつかないということは、必ずしも客観的な正しい事実だけを述べることが求められているわけではありません。そもそも人間にはそんな客観的な事実をいつも述べることは不可能なことなのです。
さて、桃香さんが例に挙げたケースですが、どちらのケースも自分が知っていることや思っていることと違うことを表明すれば確かに嘘をついてしまうことになります。秘密を知っていながら、「知らない」と答えれば嘘になるでしょう。あるいは同意見でありながら、思っていることと違うことを伝えれば相手を欺くことになるでしょう。
そこで、こういう場合の嘘を正当化するためによく言われることが、「嘘も方便」ということなのではないかと思います。嘘も方便という考えは「嘘をついた目的が嘘という手段を正当化する」という考えです。桃香さんが挙げてくださった例はどちらの場合も嘘をつくことが目的なのではなく、別の正しい目的を達成するために、嘘という手段が正当化されるかどうかというケースです。しかし、目的さえ正しければ、それを達成する手段はどうでもよいとすることは倫理的に許されることではありません。やはり、どんな言い逃れをしたとしても嘘は嘘でしかありません。
しかし、思っていることを必ず教えなければならないかということは、また全然違う問題です。誰しも質問されたことにすべて答えなければならない義務をそもそも負っているわけではないからです
桃香さんがご質問くださった二つのケースでは「一切ノーコメント」と答える方法があると思います。「ノーコメント」というのは嘘をついているわけでは決してありません。知っているとも知らないとも答えないことです。肯定も否定もしない答え方です。
また打ち明けられた秘密の場合には、逆に積極的に秘密を守らなければならない場合もあります。例えば、弁護士や牧師が誰かから秘密を打ち明けられて相談を依頼された場合には守秘義務があるわけですから、たとえ本当の事を知っていてもそれを語ってはならないのです。その場合には守秘義務を理由にコメントを控えることができるはずです。
以上長々と述べてきてしまいましたが、要するに嘘をつかないということは、必ず真実を述べるということとはイコールではないということです。知っていても真実を述べない場合があったとしても、そのことが直ちに嘘つきとして非難されることはないということです。時と場合によっては、秘密を守ることが求められることもあるからです。言う必然性のない事柄であれば、たとえそれが真実であったとしても、それは言う必要性がないことなのです。なんとなれば、神ご自身はわたしについてのすべての真実をご存知です。しかし、それを何の必然性もなく公表したりするお方ではありません。それでも、神は真実で嘘も偽りもないお方なのです。嘘は許されませんが、愛するがゆえに真実の公表を差し控えることは神ご自身でさえなさっていらっしゃることなのです。
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