タイトル: エデンの園は今でもあるの? C・Tさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はC・Tさん、女性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「私は洗礼を受けて8年になる者です。前に子供を日曜学校に通わせていました。その後、子供達は成人し、教会から去りました。その、子供から聖書についての質問を受け、『ラジオ牧師に聴いてみる』と答えました。
子供の質問は下記の通りです。
神様はエデンの園にアダムとエバを住まわせた。アダムとエバの罪のため二人はエデンの園を追放された。イエス・キリストは総ての人の罪を赦す為に十字架に付かれた。上記が正しいと仮定すると。
質問1.今もエデンの園は実在するのか
質問2.私たちは、エデンの園に入ることは出来るのか。
以上です。よろしく、お願いします。」
C・Tさん、メールありがとうございました。お子さんと言ってももう二十歳を過ぎていらっしゃるんですね。同じ質問でも、どういう動機からその質問が出てきているのかということは、その質問に答えるときに案外知っておくべき大切な事柄です。救いの道を求めてエデンの園のことが気がかりになる人もいれば、純粋に知的な興味からエデンの園について知りたいと思う人もいることでしょう。あるいは、ただ、聖書に書かれていることを論駁したいがために、そういう質問をするということもあるかもしれません。
きょうはとにかく聖書自身がそれについてどのように語っているのかを見てみることにしたいと思います。
先ずはじめに「エデンの園」が今でも実在するのか、ということからお話したいと思います。
ご存知のとおり、「エデンの園」が最初に出てくるのは創世記の2章から3章にかけてです。創世記2章8節の説明によれば「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」とあります。エデンと言う場所に園を設けたので、「エデンの園」と呼ばれるようになったわけです。この「エデン」の地名の由来については諸説あるようですが、ヘブライ語の意味は「喜び」と関係があるようです。少なくともイザヤ書51章3節はそのように「エデンの園」と「喜び」を結び付けています。
「主はシオンを慰め そのすべての廃虚を慰め 荒れ野をエデンの園とし 荒れ地を主の園とされる。 そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。」
それで、創世記に話が戻りますが、エデンの園から流れ出る一つの川が四つの川となって流れている様子が描かれています。そのうちのチグリス川とユーフラテス川は、今日でも名前が知られているとおり実在する川です。しかし、あとの二つピジョンとギホンは名前の知られていない川ですが、流れている場所はアラビアとエチオピアです。もっとも、これだけの記述からエデンの園がどこにあったのかを突き止めることは不可能に近いことです。聖書の記述どおりであるとすれば、チグリス・ユーフラテス川をさかのぼっていけば、エデンの園に至るはずです。しかし、創世記の記事をもう少し読み進んでいくと、大きな壁にぶち当たります。それは3章24節にこう記されているからです。
「(主なる神は)アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
ケルビムと言うのは天使の名前です。つまり、エデンのそのは御使いによって守られ、人間が近づくことができないようになっているのです。ですから、聖書によれば今もエデンの園が実在してはいるのですが、残念なことに人間はそこへ近づいてその存在を確認することはできないのです。
ところで、先ほど引用したイザヤ書では、エデンの園はかつて創世記で描かれていた実在のエデンの園というよりは、終末の時代の祝福と希望の象徴のように描かれています。そこは「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」そのような場所です。何よりもそこは「主の園」と呼ばれ、主が共にいて主の恵みを実感できるような、そういう場所です。
また、創世記はエデンの園から川が流れ出していることを描いていましたが、旧約聖書のエゼキエル書47章やゼカリヤ書の14章も、神の神殿の置かれているエルサレムこそがエデンの園であるかのように、そこから命の水が流れ出している様子を預言しています。そもそもエルサレムの神殿というのは神が共にいてくださることを象徴しているわけですから、まさに神が共に歩んでくださったエデンの園と共通していると言うことができます。
さらに新約聖書の黙示録21章を読むと、そこには新しいエルサレムについて記されています。そして、22章の2節にこんな記事が見出されます。
「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」
創世記にはケルビムときらめく剣の炎をもってエデンの園とそこに生える命の木は閉ざされたとあるのですが、天から下る新しいエルサレムにこそ、命の木が実を結んでいるのです。
このように見てくると、創世記には確かにアダムとエバが住んでいたエデンの園が実在していたのですが、旧約聖書の預言書や新約聖書の黙示録では、もはや、その地理的な場所が問題なのではなく、むしろ神が共にいてくださるそのような場所にこそエデンの園の意味があるかのように描かれていると言うことです。
ここまでお話すれば、二番目のご質問の答えはもう見えてきたかと思います。二番目のご質問はこうでした。
「私たちは、エデンの園に入ることは出来るのか。」
聖書自身の教えによれば、地理的な意味でのエデンの園の場所はもはやほとんど意味をなさないということです。それよりも、命の水が流れ出し、命の木が実を結ぶ象徴的な場所としてのエデンの園こそ意味があるのです。神が我々人間と共にいてくださる空間…それこそパラダイス、神の楽園と言うことができるでしょう。
イエス・キリストはご自分と一緒に十字架に掛けられた強盗の一人にこう言いました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
イエス・キリストを信じる者にはだれでも神の楽園に入ることが赦されているのです。