タイトル: エジプト人はただの悪玉? 兵庫県 M・Sさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのM・Sさん、男性の方からのご質問です。FAXでいただきました。お便りをご紹介します。
「山下先生。早速わたしの不勉強の恥じをさらすことになると思いますが、旧約聖書には、出エジプト記をはじめ、エジプトをいわば『悪玉』と受け取って、神さまがこれを“退治する”といった内容の話が顕著に出てきますね。こういう話を現代の中東の人々、エジプト人はどんな思いで聞くのでしょうか。また、逆にクリスチャンたちは、何も感じずに聞いているのでしょうか。
あれはあくまで昔の一時期の話だとか、エジプトの当時の一時期の話だとか、エジプトの当時の王制による圧制が悪かったからだ、偶像崇拝がいけなかったのだ、と言うだけではおさまらないように思います。
エジプトまたは中近東はキリスト教の宣教の対象からはずしてよいのでしょうか。
ファラオによってイスラエル民族が痛めつけられたから、神さまが“味方”してくださった、という考えにしても、今ひとつクエスチョンが残る私です。」
M・Sさんお便りありがとうございました。M・Sさんからのお便りを読ませていただいて、M・Sさんがとても深い関心をもって聖書を読んでいらっしゃることを感じることができました。それはただの興味本位から出た質問ではなく、わたしの乏しい読解力で感じたところによれば、そこには一つの民族に対する宣教という大きな関心が横たわり、また、同時にそれは、イスラエルから見れば異邦人である私たち日本人に対する宣教という視点も含まれているのではないかと思いました。
私がM・Sさんのご質問の意図をどれくらい正確に把握できているのか、ちょっと自信がないのですが、先ずは一番答えやすい質問から取上げていくことにします。
M・Sさんはお便りの中でこうおっしゃっています。
「エジプトまたは中近東はキリスト教の宣教の対象からはずしてよいのでしょうか」
つまり、旧約聖書の中に出てくる悪しき国エジプトのイメージを、ただ、一時代のエジプトの特徴と片付けてしまうとすれば、なるほどそれはそれで一つの説明にはなると思います。大変大雑把な見方かもしれませんが、救いの歴史の中では、イスラエルの歴史こそが中心で、イスラエルを取り巻く国の歴史は、せいぜい良くてイスラエルを引き立てる脇役に過ぎないか、はたまた、神の国イスラエルに対峙する悪の王国という図式で見られがちです。もしそれで終わってしまうとすれば、イスラエルの周辺諸国とその住民は、大変気の毒な歴史的な意味しかもたないと言うことにもなるでしょう。彼らの救いはどうなるのか、という素朴な疑問は出てきて当然です。特にイスラエルからすれば異邦人の国に過ぎない日本に住む我々はどうなるのかという疑問とも結びついてきます。
そこで、まず冒頭で掲げた質問…「エジプトまたは中近東はキリスト教の宣教の対象からはずしてよいのでしょうか」という質問に関して言えば、確かに彼らも救いの対象として見られていることは明らかです。民族という枠を越えたキリスト教にとってはもちろんのこと、イスラエル民族と深いかかわりの中で救いについて教えてきた旧約聖書でさえも、彼らの救い、世界全体の救いについて決してネガティブなのではありませんでした。
例えば、イザヤ書の19章はエジプトへの審判を預言していますが、ただエジプトの審判と破壊だけを告げているのではありません。19章21節22節はこう述べています。
「主は御自身をエジプト人に示される。その日には、エジプト人は主を知り、いけにえと供え物をささげ、また主に誓願を立てて、誓いの供え物をささげるであろう。主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。」
実際問題として、エジプトの国は古くからキリスト教の重要な拠点であり、特にアレクサンドリアは多くのキリスト教指導者を輩出しました。現在でも15%ほどのクリスチャンがエジプトにはいます。因みに日本のクリスチャン人口は1%に満たないと言われていますから、はるかに多くのクリスチャンがそこにはいると言うことです。
いわゆるアラビア語圏の諸国のほとんどは現在はイスラム教の国々ですが、これらの国々への伝道はおろそかにされるどことか、かえって熱心になされています。この番組を提供しているキリスト改革派教会のメディア伝道部は日本語を含めて九つの言語で各国にラジオなどを通して宣教活動をしていますが、キプロスを拠点にアラビア語の放送も展開しています。
では、クリスチャンにとって、これらの国々に住む人々は、かつて神の民であるイスラエルを迫害した悪い国々でしかないのでしょうか。あるいは、今は神の福音であるキリスト教の教えを無視する無知な国なので、特別に伝道の必要性があるということなのでしょうか。決してそうなのではありません。神の御前には、かつて主ご自身の民であったイスラエルでさえ、神の御心に添わない民だったのです。ただ、憐みと恵みによって選びの民とされ、救い主を輩出するというおおきな役割を与えられたに過ぎないのです。
どの国もどの民族も、自らの救いに関して神の前には自分の正しさを主張することはできないのです。むしろ、神の憐みだけが人を救い、人を命へと導くのです。
エフェソの信徒への手紙の中でパウロは、キリストに結ばれて異邦人もユダヤ人も一つとされていく神の壮大なご計画を「秘められた計画」あるいは「奥義」と呼んでいます。その神の計画は人知をはるかに超えたものであって、断片だけしか知ることのできない人間には、一つの民族が他の民族に対して優位であると言いうるようなものはなにももっていないのです。むしろ、あらゆる民族はそれぞれ神から与えられた固有の歴史の中を歩みながら、その与えられた文を果たし、キリストのもとへと集約されていくのです。キリスト教的に言えば、キリストこそが歴史を見る視点なのです。
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