タイトル: 「教派がたくさんあることは分裂のしるし?」 ハンドルネーム、窓さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム、窓さんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しく聞かせて頂いています。たくさんの方から寄せられる質問を聞きながら、自分も共感できる質問に出会うと、ついそば耳をたてて番組を聞き入ってしまっています。
さて、そっそくですが、質問があります。プロテスタントにはたくさんの教派があって、いったいいくつの教派があるのだろうと、ちょっとうんざりしてしまうくらいです。日本のクリスチャン人口がわずか百万人に満たないと耳にしたことがありますが、そんなわずかなクリスチャン人口に対して、こんなに多くの教派はほんとうに必要なのでしょうか。山下先生はこのような現状をどうお考えになりますか。わたしは、こんなにもたくさんの教派に分かれていると、なんだかキリスト教会が分裂しているような印象をもたれてしまうのではないかと思っています。口では教会は一つといいながら、実際にはたくさんの教派に分裂しているのがキリスト教会ではないでしょうか。」
窓さん、メールありがとうございました。日本に一体いくつの教派が存在しているのか、実際に数えたことがありませんが、人口が20万に満たないほどの小さな地方都市にいっても、5つや10の教派がひしめき合っていると言うのも珍しくないのが日本のキリスト教会の現状であることは認めざるを得ません。それに加えてどの教派にも所属しない単立の教会もありますから、ほんとうに日本のプロテスタント教会は少ないクリスチャン人口の割にバラエティに富んでいます。
確かに窓さんがおっしゃるとおり、ニカイア信条では「一つの聖なる公同の使徒的教会を信ず」と告白し、教会が一つであると信じてます。また、イエス・キリストご自身もヨハネ福音書の中で次のように祈っています。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」
これは、キリストが教会の一致のために祈ったことを示すために、しばしば引用される個所です。確かに、イエス・キリストも信じる者たちの群れが一つとなることを願っています。
それならば、窓さんがおっしゃるように、たくさんの教派が乱立している現状は、ただ分裂のしるしに過ぎないのでしょうか。またこのような現状をご覧になってキリストご自身も憂いていらっしゃるのでしょうか。
このことについて考える時、「教会」という言葉の使い方がまず問題になります。確かにキリスト教会では古い時代から教会は一つであると考えられて来ました。先ほど引用したニカイア信条の言葉はその代表的な例です。「一つの公同の教会を信ず」というのがキリスト教会の信仰です。
またキリストの教会が一つであるという考えは、教会がキリストを頭とした一つの身体であるという表現にも表れています。決してキリストの身体である教会はいくつにも分裂しているのではなく、一つの身体として存在しているのです。
通常、「教会」という言葉を使う時に、一方ではこの地上にある組織された教会をさす場合と、真の信者だけから構成される目に見えない教会をさす場合があります。この目に見えない教会は神様の目だけには明らかな教会と言っても良いと思いますが、この教会が一つであることは誰にも疑いようのないことです。しかし、最初に挙げた地上に組織された目に見える教会は、まことの信者だけから構成されると言うわけではありませんし、いつも理想的な教会であるとも限りません。そういう弱さを持った教会です。もちろん、だからと言って、聖書はこの組織された地上の具体的な教会を否定的に捉えているわけでもないのです。新約聖書の中にはコリントにあった教会のように問題だらけの教会もありました。しかし、パウロはこの教会に手紙をあてて書くときに、この問題だらけの教会を教会として扱っていたのです。つまり、どんなに弱さや欠点が多くあったとしても、キリストの教会として扱いつづけていたのです。
さて、ここからが問題ですが、この地上の教会はどんなに理想を追い求めたとしても弱さや欠点を完全に拭い去ることはほとんど不可能に近いことです。しかし、だからと言って、完全さを追い求めることをやめてしまうことは、けっして神の望んでいらっしゃることではありません。新約聖書の中に記されることは、いつも、キリストを信じる群れが聖なる者として神の御前に立つということです。教会の歴史と言うのは、信仰と生活の純粋性をいかに保つかと言うことに注がれてきたといっても言い過ぎではありません。言い換えるならば、地上の教会は絶えず見えない公同の教会の姿に近づこうといつも努力を重ねてきたと言うことです。
そのような努力の結果は、しばしば教派の形成という結果を招きました。もちろん、それを分裂のための努力などと思ってはいけませんし、実際、分裂することを目指して教派が形作られるわけではありません。誰しも、自分の良心に反してまでも妥協的な信仰生活を送るべきでないことは明らかです。それぞれ、自分の信仰的な良心に照らして正しいと思うところに従って歩むべきです。そういう態度を貫くならば、それぞれに正しいと信じるところに従って教会生活を送ると言うこともやむをえないということができるでしょう。
確かに傍から見れば分裂だと思われてしまうかもしれませんが、信仰の当事者であるわたしたちにとっては、それぞれが自分の良心に従って、正しいと信じるところに従って歩んでいるに過ぎないのです。
ただ、日本の教派に限っていえば、日本の国内で何か信仰的な戦いがあって存在するようになったという教派は数えるほどしかありません。ほとんどの場合、外国で既に存在していた教派が、そのまま日本に持ち込まれてしまったといっても良いでしょう。そういう意味では、もう少し、様々な教派が一致できるものと妥協できないものとを自覚的に見極めていく姿勢は、大切だろうと思います。
そして、繰り返しになりますが、教派の存在は分裂することが目的でありません。そうではなく、いかにして目に見えない公同の教会をこの地上に具現化するかという信仰的な戦いなのですから、信仰の良心に従って分かれることも大切ですが、それ以上に一つの公同教会を実現していくために一致の努力も怠ってはならないと言うことです。
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