BOX190 2006年7月19日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「神のかたちとは?」 ハンドルネーム キッキさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・キッキさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組をありがとうございます。早速ですが、聖書についての質問があります。それは創世記に記された『神のかたち』についての質問です。創世記の1章26節によれば神は人を創造されるとき『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう』とおっしゃったとあります。そして、続く27節では『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された』とあります。ここで言われていることはいったいどういうことなのでしょうか。
 教会やクリスチャンたちの会話の中では、人間は神のかたちに造られ、堕落の結果、そのかたちを失ってしまったと言うことを耳にします。しかし、創世記を読む限り、神のかたちが堕落によって失われたとはどこにも書いてないように思います。
 そのあたりのことが、よくわかりません。聖書から分かりやすく教えてくださるとありがたいと思います。よろしくお願いします。」

 キッキさん、メールありがとうございます。人は神のかたちに造られたということは、キッキさんのメールにもあったように、創世記の1章のところにはっきりと記されていることは有名な話です。それから、キリスト教会では、神のかたちとは何かという理解が教派によって違うと言うのも事実ですが、「神のかたち」と呼ばれているものの何がしかが、堕落によって確実に失われたという理解があることも事実です。さらに、キッキさんがおっしゃるように創世記を読むかぎりでは、堕落の結果、人は神のかたちを失っていると明確に記されている個所はどこにも見当たりません。
 確かに、創世記の5章3節には「(アダムは)自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」と記されています。このことは一見、アダム以降に生まれてくる人間は、神のかたちにではなく、堕落したアダムのかたちにかたどって生まれてくるのだ、と言っているようにも取れるかもしれません。
 しかし、創世記の9章6節には、殺人の罪が命によって償われなければならないほどに重い罪である理由として「人は神にかたどって造られたからだ」と述べられています。もし、人が堕落によって完全に神のかたちを失っているのだとすれば、殺人の罪を重いと述べる理由は、堕落以降当てはまらなくなってしまいます。明らかに創世記の記述によれば、人は堕落した後も神にかたどって造られているということが前提になっているのです。
 これは新約聖書の中でもはやり同じなのです。ヤコブ書の3章9節にこんな言葉が記されています。

 「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。」

 ここでも、堕落したアダム以降の人間にも神のかたちがあるということが前提に語られているのです。

 それでは、どうして、キリスト教会では堕落した人間が何らかの意味で神のかたちを失っていると考えているのでしょうか。それは、もっぱら新約聖書の記述によるのです。確かに、先ほど引用したヤコブの手紙からも明らかなように、一方では、たとえ堕落した人間にも神のかたちがあることは当然の前提とされています。つまり、「人間」と言うものと「神のかたち」とは切り離して考えることはできないということなのです。人間とは神のかたちにかたどって造られた存在を言うのですから、その人間に神のかたちがないとすれば、それはもはや人間ではなくなってしまうのです。ですから、たとえ堕落したアダム以降の人間と言えども、人間である以上完全に神のかたちが失われてしまっているわけではないのです。いいかえれば、人間は堕落によって人間以外の何かに変わってしまったのではないのです。そういう意味で、神のかたちは完全に失われてしまったわけではありません。

 キリスト教会が、堕落した人間が神のかたちを失っていると言う場合、それは特殊な意味においてなのです。そのことはもっぱら新約聖書の記述によるところが大きいといえます。
 新約聖書によれば、第二のアダムとも言うべきまことの人であるキリストはまことの神のかたちをもったお方であると言われています(2コリント4:4、コロサイ1:15)。コロサイの信徒への手紙3章10節には古い人を脱ぎ捨てて「造り主の姿に倣う新しい人」を身に着けるべきことが命じられています。この言葉の背景には、「造り主の姿」が堕落した人間からはある意味で失われているという前提があります。造り主の姿に似せて造られた新しい人を着なければならない必然性があるのです。言い換えれば、失われた何らかの神のかたちを回復していただくことが救いなのです。エフェソの信徒への手紙4章24にも同じようにこういわれています。
 「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」
 ここでも、古い人を脱ぎ捨てて、神にかたどって造られた人を着るべき必然性が堕落した人間にはあることが前提となっているのです。
 つまり、キリスト教にとっては、まことの神のかたちである新しい人キリストを着ることが、失われた神のかたちを回復する救いへと繋がっていくのです。

 そういうわけで、キリスト教会では「神のかたち」ということを考える時に、二通りの「神のかたち」の捉え方があるのです。
 つまり、広い意味では、創世記やヤコブの手紙が語っているように、堕落しても失われない「神のかたち」があることを信じています。それは、人間が人間である限り、決して失われないものです。
 しかし、狭い意味では、堕落によって確かに失われてしまった「神のかたち」というものがあることも信じています。それについては、先ほど引用したコロサイの手紙とエフェソの手紙との組み合わせから、真の義と聖と知識の点で失われたものがあると考えられています。新共同訳聖書の翻訳ではその点が少し分かりにくいと思いますが、是非他の翻訳の聖書で読んでみてください。もっとも、冒頭でも言いましたが、この「神のかたち」なんであるかと言う理解は、カトリック教会とプロテスタント教会の理解で異なっていますし、プロテスタント教会の中でも異なる考えの人たちもいます。そして、残念ながら、聖書には「神のかたち」が何であるのか、はっきりとは記されていないのです。それでも、聖書から引き出せること、引き出せないことを見極めていくところに、聖書を読む楽しさがあるのではないかと思います。

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