タイトル: 「聖書を読むとは?」 長野県 K・Yさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長野県にお住まいのK・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しみに聴いています。
さて、早速ですが、聖書を読むということについて教えてください。
クリスチャンにとって聖書はもっとも大切な書物であることは受け容れることができるのですが、その聖書を読むということはどういうことなのか、いまひとつしっくりこない面があります。ある人の話では、聖書は人間の解釈など余計なことを抜きにして、字義どおりに理解すべきだというのです。特にその人が言っているのは、創世記の最初の部分のことです。
しかし、人間の解釈を抜きにして聖書を読むということは可能なことなのでしょうか。字義どおりに読むとはどういうことなのでしょうか。
例えば、創世記には6日間で世界ができたことが記されています。それをそのまま受け取ることが字義どおりの読み方だとすると、同じ創世記には、ノアの箱舟の時に天の窓が開いて雨が降ったと記されていますから、天には文字通りの窓がついていると信じるべきなのでしょか。あるいは、パウロは清い接吻をもって互いに挨拶するように勧めていますが、字義どおりにそれを実行すべきなのでしょうか。創世記に記された6日間の創造記事については字義どおりに解釈すべきだと主張している人も、天の窓や清い接吻の挨拶のことなどは、文字通りには解釈していないようです。どうも、その区別がもやもやとしていて分かりません。
聖書を読むとはどういうことなのか分かりやすく教えてください。」
K・Yさん、メールありがとうございました。K・Yさんが聖書を一所懸命読もうとしている姿勢を窺い知ることができてとても嬉しく思います。
さて、聖書を読むと一言で言っても、どう聖書を読むのが正しい読み方なのか、これは簡単には語り尽くすことはできないように思います。また、字義どおり、文字通りに読むと言っても、「字義どおり」ということが一体何を意味するのかは、「字義どおり」という言葉を使う人によって、その意味するところが違います。しかし、だからといって、聖書は結局難しくて読めないと思われても困ります。
これから述べようとしていることは、聖書の読み方についてのわたしなりの考えですので、もちろん反論がある人もいると思います。
まず、聖書に限らず、何かを読むと言うことは、解釈することだと言うことです。K・Yさんは「人間の解釈を抜きにして聖書を読むということは可能なことなのでしょうか」とおっしゃっておられますが、わたしは、人間の解釈を抜きにして聖書を読むことは不可能だと思います。字面を追うことを「読む」というのであれば話は別ですが、「読む」と言うことは、読んで解釈して理解することを含んでいるのです。もし、聖書は解釈されることを一切許さないのだとすれば、音声読み挙げ装置こそ、もっとも正しい聖書の読み手であると言うことになってしまいます。なぜなら音声読み挙げ装置は、余計な解釈など一切しないで、書かれていることをそのまま読み上げてくれるからです。もしそうだとすれば、牧師の説教も聖書以外の言葉で牧師は語るわけですから、それも許されないと言うことになってしまいます。
もっといえば、聖書の翻訳は、書かれていることの意味を解釈して、それぞれの国の言葉の意味にに置き換えていく作業ですから、翻訳聖書それ自体が解釈の入り込んだ書物と言うことになってしまいます。それもいけないとなれば、聖書を読むとはヘブライ語やギリシャ語で聖書をそのまま読む以外にできないと言うことになってしまいます。しかし、それが間違った考えであることは明らかです。それでは専門家以外の人は聖書に近づけないことになってしまいます。
実際に聖書を読むと言うのは、既に解釈の入った翻訳聖書を手にして、さらに、自分の解釈をそこに施す作業です。もちろん、そうした作業には間違いが入り込む可能性はたくさんあります。しかし、それ以外に聖書を読む方法はないのです。
ただ、だからと言って、好き勝手に解釈を施して好みのままに読んでもいいのだということではありません。どんな書物でもそうですが、著者の言おうとしていることを超えて解釈することは、それは、正しい解釈なのではありません。そのような読み方は、単なる読み込みや思い込みに過ぎません。聖書を読むときに許される解釈とは、結局のところ、著者が何を意図して、どういうメッセージを伝えようとしているのかという解釈なのです。
話が抽象的になってしまいましたので、少しご質問の中に出てきた個所を例にとってお話することにしましょう。
たとえば、「6日間にわたってこの世界が造られた」とする創世記の記事ですが、この部分はどうしてもわたしたちが到達した科学的な知識と整合性がない部分です。興味としては、この場合の「6日間」が何を意味するのかという問題提起もできるかもしれません。しかし、これを書いた著者にとっては、この記事が何千年も後の時代に到達した科学的な知識と比較されることを想定しているわけではありません。したがって、その時代の読者にとってどういう意味を持っていたのか、そのことが先ず第一に解釈されるべきなのです。それが現代にとってどういう意味を持つのかということは、また別の問題です。
あるいは、ノアの箱舟の記事の中に「天の窓が開いて雨が降ってきた」というような表現がありますが、この場合には、それが文学的表現であるのか、それとも、著者の事実認識なのかという問題があるでしょう。いくら字義どおりに解釈すると言っても、比喩などの文学的表現までも解釈を許さないと言うことは普通の読み方ではありえないことです。聖書とはいえ、文学的表現は文学的表現として解釈して当然なのです。
最後にK・Yさんが挙げてくださった、「清い接吻」の話ですが、確かに字義どおりには、清い接吻をもって互いに挨拶を交わすことが求められていますし、パウロが手紙で意図したことも正にそのとおりのことです。しかし、なぜ、日本の教会でこれを字義どおりに実践しない解釈が成り立っているのかと言えば、それは、習慣の違いの問題と解釈しているからです。
話がややこしくなって来ましたが、聖書を読むと言うことは結局のところ、まず、字義どおりの解釈から始まって、そこに文学的な表現や習慣なのどの可能性を考慮しながら、その時代の読者にとっての意味を確定することです。その上で、さらに、それが現代のわたしたちにとって何を意味するかと言うことを読み取ることことができれば、それは素晴らしい聖書の読み方になると思います。
Copyright (C) 2006 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.