BOX190 2006年6月28日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「再婚について」 匿名希望さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望の女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「この番組のことを知人から教えられ、お便りをしています。どうぞ、匿名でお願いします。
 実はわたしは大学を卒業してからクリスチャンになったのですが、この年になるまでずっと独身でした。30歳も終わる頃、一人の男性と出会い、真面目に結婚を考えるようになりました。相手の男性は未信者で、さらに出会った当時は離婚の調停中でした。もちろん、わたしが原因で離婚話が持ち上がったというわけではありませんし、この出会いを避けることはわたしにはできませんでした。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、わたしにとってはたまたま出会った男性が未信者で、しかも、残念なことに離婚の調停中だったのです。わたしがわざわざ好き好んでそういう人と出会ったのではないということです。理想を言えば、クリスチャンでしかも初婚の人と結婚したかったのは言うまでもありません。それと、離婚の調停中であることを知ったのは離婚が成立してからのことでした。その彼からプロポーズされたのも離婚が成立してからのことでした。
 もちろん、未信者と結婚することはクリスチャンであるわたしには心に引っかかりがありました。
 ただ、きょうご相談にのっていただきたいのは、再婚についてのことなのです。ある人から聞いたのですが、キリスト教では再婚が認められるのは、相手が亡くなった場合に限るか、あるいは、それと同等の場合に限るとのことでした。わたしは、未信者と結婚したという罪を犯した上に、離婚した相手がまだこの地上にいながら再婚をしてしまったという2重の罪を犯してしまったということになるのでしょうか。
 この心の負い目をどう処理したらよいのかと思いお便りした次第です。わたしのようなケースは決して珍しくはないと思いますので、どうぞ、番組の中で取上げてくださっても構いません。よろしくお願いします」

 お便りありがとうございました。番組ではいつもイニシャルかハンドルネームで取上げさせていただいていますが、仮にAさん、と呼ばせていただきます。Aさんの悩みはクリスチャンならではの心の負い目ということなのだと思います。番組をお聞きになっていらっしゃる方のなかには、クリスチャンでない方も大勢いらっしゃることと思います。そして、クリスチャンでない方にとっては、Aさんのような悩みがあることは理解できないことかもしれません。あるいは、そんなことを気に病みながら生活をしなければならないキリスト教はごめんだという考えの人もいるにちがいありません。
 確かに、わたしたちの国の法律から言えば、Aさんの結婚生活は何の問題もありません。正真正銘の夫婦として法律的に認められているお二人です。平安なご夫婦ににわざわざ信仰を持ち込んで、夫婦の和を乱すこともないではないかというご意見もあることだと思います。
 しかし、まずはAさんご自身が心の負い目として感じていらっしゃることについて、もう一度聖書に立ち返って事柄を考えてみたいと思います。
 今回は特に「再婚」についてのご質問ですので、その点についてだけ取上げることにします。

 さて、Aさんが耳にしたという聖書の教えは、コリントの信徒への手紙一の7章に記されていることと関係があるのではないかと思います。7章10節以下に次のように書かれています。

 「更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。…既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。…また、夫は妻を離縁してはいけない。」

 ここには先ず初めに大原則が示されています。それは既婚者は離婚してはいけないという大原則です。それは主イエス・キリストも教えられた、天地創造の原理に基づく教えです。ところが、パウロも書いているように、既に離婚してしまったという人への具体的な指示もここには記されています。その場合には再婚しないでいるか、もとのさやに収まるべきだということです。これだけを単純にAさんのケースに当てはめてしまうと、結論は一つしかありません。Aさんのお相手の男性は、一度離婚した以上、元のさやにお収まるか、再婚しないかのどちらかしか選択の余地がないということです。

 しかし、この個所が命じていることを理解するためには、もう少し丁寧に前後の文脈を読んでいく必要があるように思います。まず、パウロがこの手紙の中で「既婚者たちに命じます」といっている「既婚者」とは具体的には誰のことなのか、という問題です。もう少し、先まで読むとパウロは12節で「その他の人たちに対しては」と切り出します。ここでいうその他の人たちというのは、片方がクリスチャンではない夫婦です。いわゆる混宗婚と呼ばれるクリスチャンの人と異なる宗教の人とが結婚した夫婦の場合です。
 ということは、先ほどパウロが呼びかけた「既婚者たちに命じる」というのは混宗婚のカップルではない既婚者たちのことです。しかも、その人たちには「こう命じるのは、わたしではなく、主です」という言葉が通用するのですから、ノンクリスチャン同士の夫婦ではなく、明らかにクリスチャン同士の夫婦を念頭にパウロが語っているということです。
 そうすると、そもそも、クリスチャン夫婦の中に、何故、ここで言われているような「既に別れてしまったのなら」といわれるような夫婦がいたのでしょうか。実はここで言われていることはコリント教会の特殊な状況が絡んでいるのです。つまり、極端な禁欲主義から、離婚同然の生活をしていたクリスチャンの夫婦たちがいたのです。そういう人たちに対して、元のさやに収まるか、はたまた、再婚せずにそのままでいることを命じているのです。ですから、この場合の原則を直ちにすべての事例に当てはめて考えることはできません。

 それから、7章39節には「妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります」と記されていて、再婚の条件が書かれているようにも考えられます。もちろん、ここでパウロが念頭においていることは、通常の結婚生活の場合です。通常の結婚生活はどちらかの死が二人を分かつ時まで続きます。どちらかが死ねば、残された方が再婚することは許されていると考えられています。では、姦淫や遺棄によって離婚した場合は、相手が亡くなるまで再婚できないのかというとそうではありません。通常は相手が死んだものと見なして再婚できると考えられています。実際旧約聖書では、姦淫の罪は死罪なのですから、相手は生きているはずはないのです。

 聖書から言えることは以上の通りです。残念ながらAさんのようなケースのことを聖書は念頭に語っていないのだと思います。仮にAさんの結婚が聖書的に禁じられた結婚であるとした場合、それは無効な結婚なのかどうかこれはまた別の問題であるように思います。この場合、二人は離婚することが望ましいのかどうか、簡単には結論が出ないのではないでしょうか。

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