BOX190 2006年6月14日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「クリスチャンになると何が変わるのですか?」東京都 M・Oさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は県にお住まいのM・Oさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。大変失礼な質問かもしれませんが、教えてください。キリスト教を信じると何か変わるのでしょうか。一体何が変わるのでしょう。  何も変わらないのであれば信じる意味がないと思う反面、ちょっと信じられないような気もします。どうぞ、教えてください。よろしくお願いします。」

 M・Oさん、メールありがとうございました。M・Oさんのおっしゃるとおり、何も変わらなければ、信じる意味はありません。大抵の人は何かの変化を求めて、信じるものを探し求めます。その変化が実感できるものであればあるほどありがたいと感じ、またそうであればこそ、新興宗教やカルトの勧誘は、そうした変化の大きさを謳い文句にしています。
 では、キリスト教ではどうなのかというと、聖書はもちろんクリスチャンの身に起こる様々な変化について語っています。
 しばしばクリスチャンになった人の体験談を聞いているとクリスチャンになったことの「喜び」について耳にします。この「喜び」というキーワードは確かに聖書が語る一大テーマです。エリコの町でイエスを自宅に迎え入れたザアカイは、「喜んでイエスを迎え入れた」と聖書に記されています。またパウロによって伝道されたテサロニケの教会の人たちは「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた」(1テサロニケ1:6)とその教会に宛てたパウロの手紙の中に記されています。パウロによれば、「喜び」はただの感情なのではなく、聖霊が結ばせてくださる実の一つに数え上げられています(ガラテヤ5:22)。そういう意味で、パウロはクリスチャンの喜びをただの感情と区別しているように思われます。この「聖霊による喜び」という表現が示しているように、クリスチャンにとって何よりも大きな変化は聖霊がその人に対して働きかけているということの中にもっともよく表れています。
 使徒言行録の16章にパウロがフィリピで伝道したときの様子が描かれています。そのときリディアという名前の婦人がパウロの話を聞いていました。聖書によれば神ご自身がこの婦人の心を開かれたので、彼女はパウロの話を聞くということはないのですから、この変化は決して小さなものであるとはいえません。そのあと、この婦人はイエス・キリストを信じてクリスチャンになります。パウロによれば、聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」と信じることはできないのですから(1コリント12:3)、この婦人が心開いて話に耳を傾け、キリストに対する信仰を言い表すまでのプロセス自体が聖霊によってもたらされた大きな変化であるということができます。

 また、パウロはローマの信徒への手紙の中でこんなことも書いています。

 「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ8:30)

 神との関係について言えば、クリスチャンは信じたその時点で「義」とされるわけです。今まで罪人として最後の審判で有罪の判決を下されるしかなかった者が、イエス・キリストの救いの御業を信仰によって受け容れた結果、もはや有罪とはみなされなくなったというのです。これは身分の上で大きな変化です。そのほかにも聖書はクリスチャンになるということは神の子として迎え入れられることだとも述べています(ヨハネ1:12、ガラテヤ3:26)。これも身分上での大きな変化です。

 こうした変化は見た目でそれとわかるわけではありませんから、どうしても忘れられがちです。しかし、クリスチャンになるときにこうした大きな変化がもたらされているということを是非覚えておいて欲しいと思います。

 さて、今まで述べてきたことは、ややM・Oさんの期待をわざとはぐらかした内容でした。それというのも、先ほど述べてきたような聖霊の働きかけや、信じる者にもたらされる身分的な変化というものは、目には見えないという理由でどうしても過少評価されたり忘れられがちだったりするからです。

   おそらく、クリスチャンになったら何が変わるのかという問いは、もっと目に見えるような、もっと実感できるような何かを期待しての問いだろうと思います。たとえば、クリスチャンになったら悪い心が清められて、善いことだけを行なうようになるのではないか。あるいは、いつも幸せな人生を送ることができるようになるのではないか、そういう期待があるのだと思います。

 もちろん、聖書はそうした変化も、クリスチャンになるということからもたらされる大きな変化であると語っています。ただし、一瞬にしてそのすべてが実現するのかというとそれはまた別の問題です。聖書が語るクリスチャンの変化には一瞬にして変わるもの、例えば、今まで述べてきたような身分の上で起る変化は瞬時に起る変化です。信じた瞬間から、義とされ、神の子とされるのです。けれども、信仰生活をゴールを目ざして走りつづけるマラソンに例えられるような変化も聖書は語っています。完成へと向かって日々変えられていくクリスチャンの姿です(フィリピ3:12−14)。清くされることや、新しい人に変えられていくことは、決して一瞬にしてゴールに達するような変化ではないのです。それは日々の生活の中で徐々に作り上げられていく性質のものなのです。

   あるいは、「幸せ」ということに関して言えば、クリスチャンになったからといって必ずしもお金持ちになったり、健康な身体があたえらえるという保証が与えられるわけではありません。ただ、どんな状況のもとにあっても、万事を益として下さる神を信じ、何事もキリストにおいて示された神の愛から自分を引き離すことはできないと確信できる点で、幸せを実感することができるようにされているのです。

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