BOX190 2006年6月7日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「罪、『未必の故意』について」 大分県 ハンドルネーム・サクラさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大分県にお住まいのハンドルネーム・サクラさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生。今回は、罪というか『未必の故意』と言うのか、わかりませんが気になったことがあるのでメールを書きます。
 社会人生活も20年目を迎え、振り返ってみると私にとって、忘れがたい仕事やお客様が目に浮かびます。その忘れ難いお客様についてのことです。
 先日、今勤務している会社の取引先から、間接的に私の忘れ難いお客様の仕事を受注したこと、そして昔の話の中で、私の名前が出たと聞きました。
 そして私に声がかかったのですが、お客様が私に期待していることを考えた時、今の取引先の体制を考えると、応えることができないと感じました。そのお客様と取引先のどちらが大切か考えたのですが、私にとっては、お客様の信用のほうが何物にも変えがたく大切だと思いました。
 そんな時、その話を面白おかしく脚色して私の聞こえる場所で揶揄する取引先の社員がいて、ついにキレてしまったのですが、その直後、反省するどころか私は「これで、大切な人達に嘘をつかずに済む。」と心が軽くなったのです。『未必の故意』と言うのでしょうか。取引先を怒らせれば、その仕事を向こうの方から断ってくれると、無意識の世界で思っていたようです。それほど、私はどうしても断りたかったのです。
 先生、罪と言うのは、自分の頭で考えた時から始まるのでなく、自分でも気づかない無意識の世界から始まっていると考えたほうがよいのでしょうか?
 私のやったことは大人気ないのは言うまでもありませんが、大変高圧的な取引先には、普通の方法では断れないことを考えると簡単に断れないので、他に選択肢が無かった気がします。もっといいやり方があったのではないかとは思いますが、キレて仕事の話が消えた今、結果に満足している自分がいます。
 罪『未必の故意』について、先生の意見をお聞かせください。」

 サクラさん、お久しぶりのメールありがとうございました。社会人生活20年といえば、丁度定年までの折り返し地点あたりということでしょうか。その分野ではきっと一番実力が伴う時期だと思いますし、今後20年ほどの人生設計を思うときに、いろいろな意味で心が揺らぐときかもしれません。真面目に考えれば考えるほど職業人としてのスタンスで悩むことが多いのかもしれません。
 さて、お便りを一度ざっと読んだだけでは中々分かりにくい関係図かもしれません。要はかつての大事なお客様からの仕事の依頼が、直接のルートではなく、ご自分が今いる会社の取引先を通して関わることになるということなのですね。そして、その仕事を直接引き受けている取引先会社の体制では、とてもその大事なお客様のご要望には応えきれないとサクラさんはお感じになって、ご自分はこの仕事には、関わりたくないとお考えになったということでしょうか。
 そして、結果から言えば、サクラさんが願っていたとおりになったわけですが、その原因は、あることがきっかけでサクラさんがキレてしまうほど怒りを爆発させてしまったことにあるというわけですね。

 一応、サクラさんのお仕事に関わる問題ですから、わたしには判断しかねる事柄がたくさんあります。そもそも、この仕事はサクラさんの職業に対するスタンスからいって、ほんとうに断らなければならない仕事であったのかどうなのか、また、サクラさんの業務形態から言って、断ることができる仕事であったのか、それとも、通常ならば断ることのできない仕事であったのか、そういうことはわたしには判断しかねるところです。ですから、今回の件に関して、サクラさんがどういう点をキリスト教的な意味での罪とお感じになったのかが、はっきりとわからないままお答えせざるを得ないと思います。

 仮に、この仕事が会社の方針上、断れない性格のものであるにもかかわらず、サクラさんの職業人としてのスタンスや良心からそれを引き受けないとしたとしても、それ自体は罪でも何でもないとわたしは思います。だれしも、自分の良心を踏みにじってまで会社に忠誠を誓う義務はないはずだからです。もちろん、それによって自分が不利益な立場に置かれるということは避けられないかもしれません。
 それから、怒りを爆発させるということに関しても、それ自体は必ずしも罪とはいえないことです。何に対して怒るのか、どのように怒るのか、そういう判断も必要でしょう。わたしはその場に居合わせたわけではありませんから、それが大人気ない怒りだったのか、それ相当のふさわしい怒りであったのかコメントすることもできません。

 もし仮に、この怒りがサクラさんご自身がご自分を分析していらっしゃるように、仕事が自分のところへ回ってこないための無意識の抵抗から来るのだとしたら、そのような怒りは罪深い怒りということができるのでしょか。
 もし、これが単純に刑法に関わる問題であるとするならば、過失か故意かということは犯罪が成立するかしないかの重要な境界線になります。そして、過失と故意との間にも「認識ある過失」から「未必の故意」まで細かな区別を設ける学説もあるほどに、その差は重大な事柄です。
 もちろん、聖書の中の規定のあるものは故意と過失の間に区別が設けられています。例えば民数記35章9節以下に「逃れの町」の規定がありますが、そこには故意ではなく誤って人の命を奪ってしまった場合の規定があります。また故意と過失の区別をどのように推定するかという具体的な記述もなされています。
 ところが、聖書にはこのような具体的な罪についての規定のほかに、漠然とした心の罪についても記されています。詩編の19編13節には「知らずに犯した罪、隠れた罪」についても記されています。そして、この詩編の作者はそのような罪は自分の意識の外にあるのだから仕方ないとは考えずに、そのような罪からも清められることを願っています。
 そういう意味では、罪と言うのは、自分の頭で考えた時から始まるのでなく、自分でも気づかない無意識の世界から始まっていると考える事ができるかもしれません。

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